ほかにも、歴史教育の欠陥を挙げてみよう。

とにかく、わかりにくい。とくに近代史など自虐的だと批判されるが、それ以前に教科書の説明で因果関係がわかるのだろうか。「ペリーが黒船に乗ってやってきて、幕府が鎖国をやめて明治維新になり、日清日露戦争には勝てたけど、調子に乗ってアジアを侵略したので、アメリカに負けた」としか読めない内容になっている。

これ、自虐以前に、説明不足の典型ではないだろうか。

『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(倉山満著・KADOKAWA刊)

「応仁の乱」裏切りと寝返り

歴史教科書の説明不足といえば、応仁の乱が筆頭だろう。

「室町幕府8代将軍足利義政の後継を巡り、東軍の細川勝元が義政の弟の義視を、西軍の山名宗全が義政の息子の義尚を担いで11年も争い、京都は焼け野原になった」

さて、結果は? 九代将軍に就いたのは、義尚である。

では、西軍が勝ったのか? 逆で、三管領家の一人であった細川家は管領の地位を独占し、山名家は没落していく。教科書だけ読んでいては、応仁の乱の何も理解できない。むしろ、謎だけが残るだろう。現に高校生時代の私がそうだったので、勝手に概説書を読んで調べたものだ。

過程は複雑である。最初、義尚の母の日野富子は山名宗全を頼った。しかし、応仁の乱の初動で、細川勝元は花の御所を本営とする。そこで富子は宗全を裏切り、勝元も富子に応えて義尚の後ろ盾となった。これに居場所がなくなった義視は出奔し西軍に駆け込み、今度は宗全が義視の後ろ盾となる。いわば、敵味方が入れ替わる「外交革命」が起きていたのだ。これを説明しないと、何が何やらわからない。

応仁の乱の勝者は、将軍の地位を得た富子と義尚、管領の地位を独占した細川家である。ちなみに、勝元も宗全も、乱の七年目に揃って病死している。

受験問題では、登場人物の丸暗記が必須だ。

東軍 義視・細川勝元・斯波義敏・畠山政長
西軍 義尚・山名宗全・斯波義廉・畠山義就

三管領家の斯波家や畠山家の家督争いが複雑に絡み、東西両軍に分かれて抗争したと説明される。それはそのとおりなのだが、では、ここに書かれてある名前を全員丸暗記しなければならないのか。