4年以上、通算46回の連載は亡くなる直前まで続いた

この本にも出てくるが、そうした中、本田さんを東京競馬場へ連れて行ったことがあった。馬主席から、車いすに座ってターフをじっと見ていた。声をかけられなかった。競馬との別れを惜しんでいたのだろう。

帰りのクルマの中で、本田さんは「ありがとう」といった。涙をこらえた。

本田靖春(著)『我、拗ね者として生涯を閉ず(上)』(講談社)

だが、肉体はボロボロになっても、本田さんの書くことへの執念は衰えることがなかった。2000年4月から、月刊「現代」で「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載が始まったのである。

担当者から知らされたとき、正直、驚いた。同時に、本田さんを慕う講談社の編集者たちがこぞって本田さんを支えてきたからこそ、この日が来た、そうも思った。

以来何度も中断するが、4年以上、亡くなる直前まで連載は続いた。ほとんど視力を失った右目に、バカでかい拡大鏡を使って一字一字、それこそ石に刻むように書いていくのだ。

「病魔は止むことなく本田を襲った。大量下血から大腸ガンの切除、壊疽(えそ)の進行による右足の切断、左足の切断、大腸ガンの再発……。四カ月、三カ月、二カ月、三カ月の休養をはさみつつ、本田は通算四十六回に及ぶ連載を書き続けた」(本書より)

作家と編集者とは、一緒に人の家にドロボウに入るみたいなもの

壮絶などという言葉が陳腐に思える過酷な闘病中でも、本田さんのユーモアあふれる物いいは途切れることなく、見舞いに行ったわれわれを逆に元気づけてくれた。

「元木君、テレビで競馬中継を見ているんだけど、よく当たるんだよ」、そういって笑った。ネオユニヴァースがダービーを勝った瞬間を、病床ベッドに腰掛けて、2人で見たのが最後になった。

担当編集者のひとり、藤田康雄には、「作家と編集者ってどんな関係だと思う?」と聞いたそうだ。

「二人して一緒に人の家にドロボウに入るみたいなものじゃないのかな。そう思ってきたよ」。書き手と編集者は一蓮托生だというのであろう。

後藤氏が書いているように、担当編集者と本田さんとの仲は「〈会社〉や〈仕事〉としてのかかわりという域を超えた、ちょっと例を見ない交わりであった」と思う。

ノンフィクション作家として優れた仕事をした書き手はほかにもいるが、編集者たちから、これほど愛された人はいないと思う。