「可能性の時代の子として美空ひばりはいた」
巡業先で入院して、再起不能と騒がれたが、一度は不死鳥のようによみがえった。ホテル・ニューオータニだったと記憶しているが、そこで行われた関係者だけの復活コンサートにも呼んでもらった。
彼女が亡くなったのは、本が出て2年後。52歳だった。
本田さんのノンフィクションの基本は私的ノンフィクションである。縦糸が美空で、横糸に本田さんの戦後が織り込まれている。だが、美空に対する思い入れが薄い分だけ、本田さんのノンフィクション群の中では、成功作とはいえないかもしれない。
だが、戦争が終わり、当時の人々がどういう想いでいたのかを、見事に綴った文章がある。これだけで私は、この本をつくった価値があったとひそかに思っている。
「人々は飢えていた。私の場合は、住む家がなく、納屋の暮らしから戦後の生活が始まった。着るものがなく、履く靴がなく、鞄がなく、教科書がなく、エンピツがなく、ノートもなかった。
しかし、人々は桎梏から解放されて自由であった。新しい社会を建設する希望に満ちていた。そうした可能性の時代の子として美空ひばりはいた」
「目が見えないといっている」と電話があった
本田さんは「戦後に授けられた民主主義を墨守したまま人生を終えたいと考えている」といっていた。本田さんが考える戦後とは60年安保闘争までを指す。戦後と民主主義にこだわり続けた人だった。
早智夫人から、本田さんの糖尿病は50代初めの頃から発症していたと聞いたことがある。酒はもちろんだが、肉が大好きで、野菜はまったく食べない。取材がある時以外は家で執筆三昧では、糖尿病にいいわけはない。
本田さんが元気な頃、新橋にあるステーキ屋「麤皮(あらがわ)」へご一緒したことがあった。何ともうれしそうに、NY仕込みのマナーでステーキを食べていたのを思い出す。
記憶が確かではないが、92年だったと思う。夫人から、主人が目が見えないといっていると電話があった。糖尿病が悪化してきたのかもしれない。
そこで、阿佐ヶ谷にある病院「K」に少し前までいて、千葉県・流山に自分の医院を開業し、「老稚園」と称して老人医療に力を入れている庭瀬康二さんに連絡をした。阿佐ヶ谷なら、本田さんの住まいとそう遠くない。私もカミさんも、そこで人間ドックを受け、カミさんの両親も何度か入院したことがある。
庭瀬さんは胃がんの名医で、寺山修司などの主治医も務めた人である。庭瀬さんは、「わかった。すぐに手配する」といってくれた。だが、結果的には、それが裏目にでた。眼の手術をした医師がミスを犯し、右目を失明させてしまったのである。