読売新聞の花形社会部記者だったが、37歳で退社

ノンフィクション作家の本田靖春さんが亡くなって14年がたつ。

本田さんの『不当逮捕』『疵(きず)』『誘拐』『私戦』『私の中の朝鮮人』『我、拗(す)ね者として生涯を閉ず』などは今でも多くの読者に読み継がれている。

後藤正治(著)『拗ね者たらん 本田靖春 人と作品』(講談社)

本田さんと袖すり合った編集者の一人として、うれしいことである。

私は今でも、考えあぐねた時、本田さんの形見の万年筆を取りだして原稿用紙に書いてみることがある。ペン先が本田さんの言葉を引き出してくれるような気がするからだ。

読売新聞の花形社会部記者だった本田さんが、当時の社主・正力松太郎の動静を紙面を使って毎日のように報じることに異を唱え、読売を退社したのは1971年、37歳の時だった。

私は彼の一回り下である。講談社に入社して2年目、25歳だった。月刊「現代」の先輩から本田さんを紹介された。

このところ認知症気味で記憶は定かではないが、巨人軍の内幕もののまとめ原稿を依頼したと記憶している。署名記事ではない。

前妻がこしらえた多額の借金を背負っていた

簡単な打ち合わせをして別れた。だがその夜、本田さんから自宅に電話が入り、自分は読売を辞めた時、いくつか誓ったことがある、その一つに、巨人軍については絶対書くまいというのがあるので勘弁してもらえないかというのである。

私の父親は記者ではないが、戦前から読売に勤めていて熱狂的な巨人ファン、私も長嶋大好き人間だった。それもあって、ここは引くわけにはいかないと押し問答を1時間以上繰り返し、何とか引き受けてもらった。

不幸なことに、これが本田さんがフリーになって初めて書いた原稿になってしまった。後に知るのだが、この時期、前妻がこしらえた多額の借金を背負い、仕事を選んではいられない事情があったのだ。

こうして始まった本田さんとの付き合いは、濃淡はあっても、2004年12月4日に71歳で亡くなるまで続くことになる。

本田さんと一緒に仕事をしたのは1回だけだが、よく呑みには行った。四ツ谷や新宿の淀橋警察(現・新宿警察)裏手の飲み屋やスナックが多かった。