伝説のヤクザ・花形敬を取り上げた名作『疵』

本田さんは、カネでオレを縛ろうとするのかと反発し、当然ながらその話を即座に断った。以来、講談社から足が遠のいたというのである。

このことについて、本田さんにいつか聞こうと思っていたが、機会を逸してしまった。

その後の活躍は“快進撃”といっていいだろう。77年に『誘拐』『私戦』、80年に『村が消えた』、83年に『不当逮捕』『疵』、86年に『警察(さつ)回り』、87年に『「戦後」美空ひばりとその時代』を出している。

この中で『不当逮捕』が本田さんの代表作だといわれているが、読者が多いのは、伝説のヤクザ・花形敬を取り上げた『疵』かもしれない。

この中に、上野の警察回り時代から一緒だった「内外タイムス」の平岩正昭という人物が登場する。千歳中学(旧制)の平岩が一期生、花形が五期生、本田さんが七期生。本の中では花形よりもヤクザの資質を持っていたと書かれている平岩さんとは、本田さんの紹介で知り合い、以後、可愛がってもらって、よく呑み歩いた。

平岩さんの父親は元アナーキストだった。一代で財を築き、社会党のパトロンだともいわれていた。世田谷・岡本に1万坪の土地を持つ大地主の長男だったが、父親と折り合いが悪く、戦争中、中国の北京大学に留学する。

敗戦から2年後、帰国して、朝日新聞を蹴って夕刊紙へ入った。長身痩躯、顔は高倉健をもっとニヒルにしたような二枚目で、剣道の達人。

『疵』が「オール読物」に載った時、平岩さんは笑いながら、「ひどいなポンちゃんは」といっていた。

30年以上の付き合いだったが、仕事をしたのは2つだけ

もう一人、本田さんですぐ浮かぶのは黒田清さんである。大阪読売を辞めて独立してから、東京の朝のワイドショーに出ることも多くなった。

前日に来て、夜、本田さんと3人で、新宿西口裏のスナックでよく呑み、歌った。朝方まで騒いでホテルに戻り、朝、チャンネルをひねると黒田さんが出ていた。

その頃から体調が悪くなった本田さんを、黒田さんは心の底から案じていた。また調子が悪いようで入院していると伝えると、「何かあったら必ず連絡してくれ」といっていた。

その黒田さんのほうが本田さんより早く逝ってしまったのだから、世の中分からないものである。

30年以上の付き合いになるのに、本田さんと仕事をしたのは先に書いた初仕事と、「現代」に連載してもらった『「戦後」美空ひばりとその時代』だけである。

なぜなのかと、よく聞かれたが、私には、好きな人とは仕事をしないという傾向があるようだ。雑誌屋家業が長いと、長年親しく付き合っていても、1本の記事で関係が終わることがよくある。