糖尿病が悪化し、体力も気力も失われていった

申し訳ないと頭を下げる私に、本田さんは怒りをぶつけることはなかったが、件の医師を告訴することも考えたという。今思い出しても慙愧に堪えない。

その後、糖尿病センターのある東京女子医大へ入院して、治療を受けることになり、この病との長い壮絶な闘いが始まる。

私が「週刊現代」編集長だった95年新年合併号から、本田さんのノンフィクション「岐路」の連載が始まる。これは元々「小説現代」に連載する予定だったものだが、誌面の都合上、小田島雅和編集長が、「本田さんの競馬ノンフィクションだ。お前のところでやってくれないか」と持って来たものである。

私は即座にOKした。「岐路」は、読売を辞めて4カ月ほどたち、前妻のつくった借金を抱えて鬱々としていた本田さんが、ダービーでヒカルイマイが、後方一気に差し切るのを見るシーンから始まる。

私は昔、本田さんの家で、前の奥さんと一度会ったことがある。楚々(そそ)とした美人だったと記憶しているが、何を話したかは覚えていない。

取材はほとんど終わっていて、既に何本分か書いてあったと思う。本田さんにとって初めての競馬ノンフィクションだったが、連載は残念ながら半年足らずで休載になる。糖尿病が悪化し、体力も気力も失われていったからだった。

作家一人救えないで、何が編集者だ、何が出版社だ

私は本田さんに、いつでも再開できるよう、目次の下に「筆者の都合により休載」と入れておきますから、あわてずに治療に専念してくださいといった。

だが、連載が再開されることはなかった。

書きにくいことだが、もう一つ問題があった。ノンフィクションを雑誌に連載している時は、原稿料や取材費が入るからいいが、本田さんクラスでも単行本で売れる部数は、小説などに比べるとはるかに少ない。

本田さんは、週に一回透析を受けなくてはいけない。当時は保険がきかなかったから、行き帰りのタクシー代を含めて、かなりの出費になる。

本田さんは笑い話に紛らわせて、透析代が払えずに病院から路上に放り出された患者の話をしたことがあった。だが、笑い事ではない。

私は、休載中も毎週、原稿料を支払い続けた。月刊「現代」の渡瀬昌彦編集長にも、いくらでもいいからとお願いをして、毎月、払ってもらった。

本田さんのような優れたノンフィクションの書き手を、こんな病気のために死なすわけにはいかない。何としてでも、もう一度ペンを握って書いてもらいたい。それが、私を含めた本田さんを慕う編集者たちの、切なる思いだった。

作家一人救えないで、何が編集者だ、何が出版社だ、そう思っていたのである。