「馬鹿な奴だ」と言って息絶えた伊藤博文

しかし日本側でも、ロシアの南下に備え、極東地域における日本の安全を保障する上で朝鮮併合は避けられないとする意見が日増しに強くなり、伊藤も併合に反対しきれなくなっていきます。

こうした状況の中で、伊藤は殺されてしまいます。1909年、伊藤は満州・朝鮮問題についてロシアと話し合うため、満州におもむきました。そして、ハルビン駅で朝鮮の民族運動家、安重根に拳銃で撃たれます。

安はその場でロシアの官憲に取り押さえられました。犯人は朝鮮人だと随行者に告げられた伊藤は、『そうか。馬鹿な奴だ。』と一言いい、それから数十分で絶命しました(*3)。伊藤は朝鮮併合を止めることができるのは自分だけだと考えており、自分が死ねば併合は免れないという意味で「馬鹿な奴だ」と言ったのです。

伊藤の暗殺を受け、日本国内の世論は朝鮮併合へと一気に傾きました。朝鮮側の李完用首相も併合を急ぐように要請しましたが、一方で朝鮮国内では暗殺者の安重根を讃える声が大きく、民族主義者が勢いを得ていました。彼らが暴動を起こせば、李完用ら親日派は真っ先に殺されてしまいます。朝鮮の民族主義者から見れば、李完用たちは自らの命惜しさに日本にすがり付く売国奴でした。

李完用首相ら朝鮮側の閣僚の求めに応じて、1910年、韓国併合条約が調印され、大日本帝国は朝鮮を併合しました。

そもそも併合などするべきではなかった

朝鮮人が自分たちで末期症状に陥っていた李氏朝鮮王朝を終わらせ、近代化を成し遂げることができれば、わざわざ、日本が莫大な予算を費やして、貧弱な朝鮮を併合することなどもありませんでした。無能な朝鮮の閣僚や支配者たちのため、結局、日本が朝鮮王朝を始末する役を押し付けられ、民族主義者たちの恨みを一身に浴びることになってしまいます。

当時の日本の指導者たちも、伊藤が「合併は甚だ厄介なり」と言った意味をよく理解するべきであったし、伊藤が主張したように、朝鮮を保護国化する程度で、ロシアを牽制することは充分に可能でした。まして、腐敗した李氏朝鮮王朝の始末などは朝鮮人につけさせるべきであったし、日本が朝鮮を併合して、その統治に関わるようなことはするべきでなかったと思います。