親父が残した、従業員との信頼関係

イノベーションは「何かと何かの新しい組み合わせ」で起きます。しかし人の認知には限界があるので、その組み合わせはやがて尽きます。だからこそ、眼の前ではなく遠くの知見を得て異なる経験をする「知の探索」が重要なのです。ただ、地方の伝統産業に引きこもっているとなかなかそれができません。三星毛糸の場合、非常に質の高い毛織物加工技術と、それを生かす豊かな水があり、そこに東京で知の探索をして戻ってきた岩田さんの経験が「新しく組み合わさる」ことで、ここから革新が起きていくのです。

第二のポイントは、三星毛糸にはそもそも、従業員や経営陣の間に、高い信頼関係が築かれていたことです。経営学では、この信頼関係を総称してソーシャルキャピタルと呼びます。時には技術力や人材の能力以上に、企業経営に重要な「経営資源」ともいわれています。

三星毛糸は、このソーシャキャピタルに恵まれていました。まず、岩田さんと先代のお父様の関係です。お父様は岩田さんが入社して1年後には社長を譲り、会長となって事実上経営を退きました。同族企業には珍しい、綺麗な交代劇です。

「入社して10カ月で、親父が僕に、『社長になれ』と言ったんです。『まだ早いだろ』と答えたら、親父は『若いから稚拙だというデメリットもあるが、動けるというメリットもある。失敗してもリカバリーできる』と言ったんです」

現会長であるお父様が出勤するのは週に1日だけで、会計周りを見て助けてくれていると言います。基本的に経営戦略は岩田さんに任せて、口を出さないそうです。

さらに言えば、岩田さんと職人さんの間のソーシャキャピタルも豊かです。岩田さんは、父親世代の職人を残したまま、自分と年の近い若い社員を経営幹部に据えました。その職人さんの技術を信頼し、生産には口を出さないと言います。「自分は技術は素人、だから職人さんを信頼し、自分は経営に専念する」という方針なのです。慶應大学時代の法曹サークルでも、勉強は同級生に任せて自分はサークル運営に専念したことと、まさに重なります。