自分自身のいびつな執着もあったと気づけた
――お父様の「女性たち」は何回か登場し、その人への感謝の気持ちもお書きです。憎悪もあると想像しますが、「中間決算」としての感謝でしょうか?
難しいところですよね。気に入らない人が財布を拾ってくれた時に、お礼を言わないかという話だと思ってます。
財布を拾ってくれたからと言って、気に入らない人じゃなくなるかといったらそうでもないだろうし、お互い緊張感はあるとは思うんです。とはいえ父や私が、いくつかのタイミングで助けてもらったという事実はあり、それには礼を言わざるを得ないというか、ありがたいことには間違いないですからね。
この本は父と私の日報のようなものだと思ってます。人生日報とでも言いますか、それをつけたことで、父に対してはだいぶ整理がつきました。父に関してのお焚き上げが、書くことで中間決算まで終了したというか。そのことによって、自分自身のいびつな執着もあったと気づけたのが今回の収穫だと思います。
窮屈な「まともな父親」の箱に入れなくてもいい
――「いびつな執着」とは、どういうことでしょうか?
世間が期待する「まともな父親」というもののテンプレートに私自身がとらわれていて、そこに当てはまってくれない父親をずっと責めていました。ですが父は「娘とはこういうもの」というテンプレートを私に一切押し付けてこなかった。
彼には彼の人生があるのだから、これだけ年数も経っているのだから、もう窮屈な「まともな父親」の箱に入れようとしなくてもいいんじゃないかなと、そんなことを思ったのです。
彼は悪人で私は善人だというスタンスから始まった関係が、私も色眼鏡をかけていたかもしれないと思うくらいまでの距離感や客観性をもてるようになりました。書いた収穫です。ただ、それ以外のところに関してはまだまだ。全部が全部、お焚き上げすればいいものではないので。