この枠組みで考えてみれば、古代ギリシアの哲学者たちが至った結論である「世界は四つの元素から成り立っている」という指摘は、アウトプットということになるわけですが、ではこのアウトプットから現在の私たちが何かを学べるかというと、もちろん何もありません。せいぜい、頭の良かった古代ギリシアの哲学者たちも、こんな世迷いごとをほざいていたんだな、というくらいの学びしかないでしょう。

しかしでは一方で、彼らがどのようにして世界を観察し、考えたかというプロセスについては、その限りではありません。そこには現在を生きる私たちにとっても大きな刺激となる、みずみずしい学びがあります。

現代人にも刺激的な「学び」が見つかる

例えばソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろ、アナクシマンドロスという哲学者がいました。そのアナクシマンドロスがある日、ふとしたきっかけから当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を持つようになります。その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」ということなんですね。なるほど、確かにその通りです。

そしてアナクシマンドロスはさらに考えを推し進めます。つまり水を支えている「何か」がなければならない、と考えると、その「何か」もまた別の「何か」に支えられている必要がある、ということです。アナクシマンドロスはこのように考えた結果、「何かを支える何かを想定すれば無限に続くことになるが、無限にあるものなどありえない……。そうなると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いていると考えるしかない」と推論したわけです。

アナクシマンドロスが最終的に出した「大地は何物にも支えられていない、宙に浮いている」という結論は、現在の私たちにとって陳腐以外の何物でもない。つまり、先ほどの枠組みで言えば「アウトプットからの学び」はないということになります。

一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度や思考のプロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑(うの)みにせず、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何によって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような態度とプロセスは、現在の私たちにとっても大いに刺激になります。

まとめればこういうことになります。つまり、アナクシマンドロスが残した論考について、現在を生きる私たちにとっての学びを考えると、それは「プロセスからの学び」であって、最終的な結論としての「アウトプットからの学び」は、刺身のツマのようなもので、学びの「ミソ」はそこにはないということです。