全国の夏祭りの中でも深い歴史と勇壮さで知られる「博多祇園山笠」。今年は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されたことでも注目されたが、その山笠を長年支えてきた企業のひとつに、辛子明太子の「ふくや」がある。創業者が特許を取らず、誰でも商品化できるようにしたため、辛子明太子は博多名物となった。「地域あってこそ」というその精神は、祭りとともに今も生きている。「ふくや」で働く人々を通して、企業と祭り、地域の“支え合い”を考えた。3回連載の第2回。
▼第1回:山のぼせ「ふくや」物語(1)博多の老舗が"山笠コネ入社"を続ける理由
http://president.jp/articles/-/22822
※当記事はqBiz 西日本新聞経済電子版の提供記事です
「櫛田入り」に憧れた同級生
「あいつががんばりようけん、オレも負けられん。そんな気持ちはあります」
恵比須流(ながれ)の赤手拭(あかてのごい)、本田祥久(22)はそう言った。
本田はふくやの6人の新入社員のひとりだ。「あいつ」とは、岡崎大地(22)。岡崎と本田はともにふくやの新入社員で、博多小、博多中の同級生だ。
福岡市博多区中呉服町(旧官内町)で江戸時代から続く寺の長男。初めて山笠に出たのは7歳のときだ。小中時代は当然のように参加してきた。中3から高1にかけて、所属する町内が当番町になったため、 地鎮祭、棒洗い、人形の飾り付けなど、毎週末行事に参加し、山笠の歴史的背景や祭りの意味を知った。
高校に進学すれば、もう山笠には出られなくなるだろうと思っていた。ところが、新任の校長が同じ恵比須流の先輩で、職員会議に諮った結果、山笠参加は教師、生徒ともに「公休」扱いに。そして本田も引き続き山笠に参加することとなった。
高2の夏、部活の柔道でじん帯を切って手術したため、初めて山笠を眺める立場になった。もどかしい思いをした反動で、高3の夏は期間中の全ての行事に参加。福岡大学に進学してからは、毎月の飲み会にもフル参加するようになった。
赤手拭を目指し始めたのはその頃だという。
「先輩たちの櫛田入りがカッコよくて、僕も選ばれたいと思いました。それは、自ずと赤手拭を目指すことになりますから」
翌年、自分以外は全員が赤手拭というなか、役職をもたない若手の本田が櫛田入りのひとりに選ばれた。
緊張のあまり、本番のことは覚えていないという。
20歳のとき、町内に8人しかいない赤手拭に最年少で選ばれた。現在は赤手拭のトップ・若手頭をサポートする赤手拭補佐だ。
仕事と山笠のバランスに悩みも
ふくやは、就活時の第一志望だった。
「博多や福岡のために役に立つ仕事がしたいと思いました。山笠にしても、博多の人だけが楽しむのではなく、外の人にも知ってほしい。ふくやは、山笠だけではなくアビスパ福岡の支援をはじめ、福岡を盛り上げることに力をいれています。会社の地域貢献の姿勢が魅力でした」