全国の夏祭りの中でも深い歴史と勇壮さで知られる「博多祇園山笠」。今年は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されたことでも注目されたが、その山笠を長年支えてきた企業のひとつに、辛子明太子の「ふくや」がある。創業者が特許を取らず、誰でも商品化できるようにしたため、辛子明太子は博多名物となった。「地域あってこそ」というその精神は、祭りとともに今も生きている。「ふくや」で働く人々を通して、企業と祭り、地域の“支え合い”を考えた。3回連載の最終回。
▼第1回:山のぼせ「ふくや」物語(1)博多の老舗が"山笠コネ入社"を続ける理由
http://president.jp/articles/-/22822
▼第2回:山のぼせ「ふくや」物語(2)「山笠と仕事の両立」に悩む博多男の純情
http://president.jp/articles/-/22823
※当記事はqBiz 西日本新聞経済電子版の提供記事です。
「下支え」で組織を理解する
7月15日土曜日の早朝5時半、博多の街が夜明けを迎えた。この日は博多祇園山笠のクライマックスとなる「追い山」。朝日を背に、白い水法被姿の集団が駆けてくる。中洲の東方にある櫛田神社を午前4時59分に出発した一番山笠の中洲流が、およそ5キロの道のりを走り通してきた。
「オイサ、オイサ……」というかけ声とともに、中洲流の一団は、町内の無病息災を願う。最終ゴール地点・廻(まわ)り止めは、間もなくだ。
1トン近い山を舁(か)きながら、子どもから老人まで千人近い集団が30分台で駆ける。 ほてった身体を冷やしてやろうと、沿道の家の主婦がホースで水をかける。 無事な完走をねぎらう人々の拍手は途切れない。通りには、厳かであたたかい空気が満ちている。
追い山が終わると、休憩もとらずにまた中洲流の一団は中洲へと戻っていく。博多手一本で区切りをつけると、締めくくりの直会(なおらい)だ。
中洲2丁目の町内の直会は、バス通り沿いの「詰め所」で始まろうとしていた。
法被姿の男性がおよそ200人、整然と詰めて座る。同じ法被姿の世話係がきびきびと飲み物を配る。そのひとり、今村信一(39)は、ふくやの食材営業部に勤務する。山笠では、今年からこの町内の衛生に昇格した。大学1年の時に志願して中洲流に入って20年だ。
「僕にとって、山笠の起点は6年前です」
今村が山笠を深く理解したのは、このときだという。
18歳から若手の中でも責任を持って働く使役として山笠に関わってきて、23歳で赤手拭(あかてのごい)に。大学卒業後、山笠を続けるためにふくやにアルバイト入社。社員登用後は店長として店の運営と山笠を両立してきた。
庶務を担当する先輩から、サポートを頼まれたのが6年前だった。庶務の仕事は会計管理から全体の運営進行まで、幅広く緻密。膨大な項目について、細かな数字を正確に記録する責任がある。その先輩はパソコンを使った事務作業について、今村に援軍を求めた。
「その人のもとで1年間下支えとして働きました。僕が支えることでその人がほめられるのがとてもうれしかったです。その人と一心同体となって働いたことで、組織全体の動きがどんなふうになっているのかがわかりました。山笠という組織をさらに深く理解することにもつながりました」