「悪気はなかった」「みんなもやっていたから」……罪を犯した人のそんな言い訳を聞いたことがないだろうか。また、目の前の金を盗むことはできなくても、ビニール傘を失敬してしまう人は多いが、罪は罪だ。人はなぜ、どんなときに不正を働くのだろうか? 行動経済学で考えてみよう。

詐欺すら起こる、感覚の麻痺

少し前に、あ然とする出来事があった。

仙台で、バロック系作曲家の名を冠したピアノコンクールの予選を見に行ったときのこと……結果がどうもおかしいのだ。

その日、普通はうしろに座る審査員が、場所の関係でたまたま目の前に座っていた。審査委員長のピアノ演奏家は、両肘をついて頬杖にして、退屈そうに大あくびをしては目を閉じる。その姿は寝ているようにすら見えた。さらにその演奏家は、何枚かたまった採点表を係が集めるたびに、隣に座る地区主催者・兼・審査員の女性の手元をのぞきこんでから評価を書く。

出場した人に講評用紙を見せてもらうと、地区主催の審査員とピアノ演奏家のふたりの評価は同じ点数と同じ内容。誰がどう聞いても下手な子や、ミスがあった人の番号が掲示され、「おかしい」という声が周り中から聞こえてきた。通過したのは、主に主催者の門下生や関係者が多いらしい。一応、大きなピアノ組織が認めた、全国大会まであるコンクール。いくら音楽は主観の審査だとはいえ、あまりにあからさまだ。門下生に手心を加えるどころではない、杜撰な結果に多くの人が驚いた。

参加費は7000円~1万円弱と金額が“小さい”地区予選。ほかのコンクールの関係者と話をすると「本部にお金をとられるから、そんなに儲けは出ないですよ」とのこと。しかし金額や規模の問題ではなく、金銭を集めるコンクールで不正を働けば、詐欺と取られても仕方がないのではないだろうか。

そういえば数年前、朝日新聞の見出しに「日展書道、入選を事前配分」の文字が躍ったのは記憶に新しい。表向きは“公募”ながら、有力8会派に所属していない人は、事実上の門前払い。入選すらしないというもので、上層部をたずねるときには“手ぶらでは行くな”が慣習だったとされる。

驚くのは、この事実が発覚したときの関係者やその周りの反応が「何を今さら」というものだったこと。つまり、長い期間みんなでやってきたことであり、誰もが不正に慣れてしまっていたわけだ。

なぜ、人は平気でこうした不正をしてしまうのだろう? それを解き明かしてくれる、おもしろい実験がある。