なぜ信長がわからないのかがわかった!

これまで『信長燃ゆ』や『蒼き信長』など、織田信長という戦国時代の英雄にこだわって小説を書いてきた。それは、私の中で「信長とは何者か?」という疑問がずっとあったからだ。わからないから、少しでも理解しようとして書く。30年近く、そんな作業を繰り返すことで、なぜ信長がわからないのかということがはっきりした。

原因は、織田信長を理解する前提となる歴史観の誤りである。それは、江戸時代に作られた“鎖国史観”にほかならない。徳川幕府は鎖国政策を採っていたから、戦国時代の記述を国内だけの覇権争いの物語にしてしまった。しかし、あの時代は日本が初めてヨーロッパと出会った大航海時代なのである。だから、信長の活躍も世界史的な視野で見なければわからない。

室町時代までの日本は、農業を国の基とし、各地の守護大名が領地と農民を支配する体制だった。だが、戦国末期には石見銀山の産出量が最盛期を迎え、シルバーラッシュを背景にしたポルトガル、スペインとの南蛮貿易がはじまった。良質の銀を輸出し、生糸や陶磁器などのほか鉄砲に使う硝石や鉛など輸入するという商品流通と貨幣経済の時代へと転換していったのである。

すなわち戦国時代は、世界を相手にした高度経済成長時代だったといっていい。信長が直面したのは、現在のグローバル化に通じる大変革への対応だった。幸い、織田家は信長の父・信秀の代から農業型の大名ではない。尾張の津島や熱田の港を拠点にした流通型の大名だった。そして、そこから上がる富を背景に勢力を拡大していった。その力を知る彼は“経済の覇者”たらんとして天下布武をめざし、それは完成目前だった。だが、彼は本能寺に斃れ、代わって豊臣秀吉が事業を受け継ぎ中央集権体制を敷く。

しかし、彼が晩年に決断した朝鮮出兵は大失敗に終わり、やがて秀吉が死ぬと、日本には再び乱世の兆しが現れる。そして、新しい政治体制の選択が最大の課題になっていく。「豊臣政権の政策をこのまま続けていこう」とする西国大名たちと「それではやっていけない。地方ごとに農業を盛んにし、領国を富ませていくべきだ」という家康を中心とした東国大名である。この2派の激突が、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いだった。