はじめて商品を見てすぐに電話で交渉

【弘兼】それで4年で退社したわけですか。でも、三菱商事にいれば高給は保証されていたでしょう。辞めることは怖くなかったのですか?

【安田】僕の世代というのは、現代っ子の新しいプロトタイプというか、第一世代だと思うんです。社会の最適化、同一化みたいなものを戦後、日本はずっと追い続けていた。僕たちは、それに満足しない世代です。別の言い方をするならば、僕たちは生まれたときから、それなりに豊かでした。では、何が大切かというと、何のために生きているのだという根本的な問いかけにどう答えるか。

【弘兼】三菱商事という大企業の中に同一化することができず、自分の存在価値を問うてみたいと思った。

【安田】大袈裟に言うとそういうことになります。

【弘兼】退社後、安田さんは母校である法政大学のアメフト部コーチに就任します。同時にドームを立ち上げ、テーピングの輸入を始める。アメリカだと1本1ドル程度のテーピングが日本では400円もした。流通経路を整理して、安く日本へ仕入れることに成功したそうですね。

【安田】そのときはテーピングの輸入とフットボールのコーチで食っていこうと思っていました。フットボールのことがすごく好きですから。

【弘兼】ドーム飛躍の大きなきっかけとなったのが、スポーツブランドの「アンダーアーマー」でした。

【安田】テーピングを扱っているうちに、「こんなものはないのか」と、様々な商品を頼まれるようになったんです。僕としてもお客さんの要望に応えたいと、ほかのものも輸入するようになりました。そんなときに、NFLヨーロッパというフットボールリーグのコーチ募集がありました。条件を見たら、僕が行くしかないんじゃないかと。

【弘兼】NFLヨーロッパとは、アメリカのアメリカンフットボールリーグのNFLが世界戦略として欧州で展開していたリーグですね。

【安田】はい。スポーツビジネスの視察も兼ねて98年に半年間派遣コーチとしてヨーロッパに行きました。そのとき、アンダーアーマーがNFLヨーロッパへの商品提供を始めていました。

【弘兼】商品はどんなものでしたか?

ドームの主な事業

【安田】今もラインアップに入っているのですが、「0039」(画像参照)という白色の伸びる素材で出来たシンプルな上半身用のアンダーウエアでした。それまで下半身用のスパッツのようなアンダーウエアはあったのですが、上半身用はなかった。僕自身選手時代から、アンダーウエアには悩んでいました。だからアンダーアーマーの商品をはじめて見たときは、「めっちゃいいじゃん」と思った。商品タグに製造元の電話番号が書かれているのを見て、その日の夜に電話し、「代理店をやらしてくれ」と言ったんです。

【弘兼】社長のケビン・プランクに会うために、アメリカのボルティモアへ渡ったとか。すごい行動力ですね。

【安田】僕にとっては当然のことでした。サラリーマンのときは制約があって行動できませんでしたから、フラストレーションがたまっていたような気がします。