「運営者ではなく経営者になれ」

1961年1月、名古屋市で生まれる。父母と妹の4人家族で、父は菓子メーカーの営業マン。転勤が多く、長野市で高校に入るまでに7回も引っ越し、小学校は3つ、中学校は2つに通う。次々に未知の世界へ入り、子どもなりに「生き延びなければ」と思い、自分から溶け込むように努めた。自然、人間好きになり、相手の話を最後まで聞く原型ができていく。

金沢大学で心理学を学んでいた3年のとき、金沢市の下宿に長野の母から電話があり、「今日、荷物を送った。明日、着くからね」と言われる。「今日送って、明日着くわけがないよ」と言うと、母は「よくわからないけど、着くらしい」と笑った。ヤマトの宅急便は6年余り前に始まっていたが、知らなかった。でも、母の電話の翌日、荷物が届く。開けたら、送ってほしいと言ったもの以外に、下着や菓子が詰まっていた。近くの店で買えるものばかりだが、母のありがたさをしみじみと感じるとともに、宅急便の仕組みも知った。これが、就職につながる。

人間好きだったから、旅行会社や航空会社など、接客の仕事を考えた。でも、母からの宅急便の印象が強く、ヤマトを選ぶ。84年4月に入社、営業推進部へ配属され、前述のクール宅急便チーム、日本橋営業所、人事部へと動く。40代になると、グループの事業再編があり、成長分野での異業種との連携なども担う。「事業をつくろう」が口癖だった時期で、ヤマトロジスティックスの社長就任も、その一環。

2011年4月、グループ中核のヤマト運輸の社長に就任する。同社では、毎月1回の執行役員会議の翌日、朝礼で、部長たちが会議のポイントを伝えていた。その役を「自分がやる」と引き取った。幹部がやっていた社長への報告や説明も、若手がやっていいように変えた。その際は答えを発信せず、育てることを意識した質問をする。「時然後言」は、社長になっても変わらない。

この4月1日、持ち株会社の社長に昇格した。その朝の訓示で、会場中央に、各部門のトップである事業長と各地の責任者を座らせた。それまで年2回の訓示に出るのはグループの役員級が中心だったが、中央にいた約40人に「事業長は事業を運営するだけではなく、事業の経営者になれ。きみたちが飛躍しないと、ヤマトグループは飛躍しない」と説いた。そこから先は、自分で考えて、発言してもらう。「時然後言」は、中堅以上にも広がっていく。

最近、役員との会合で「どこを探しても、小倉昌男がいないね」と言った。カリスマ的なリーダーがほしいという意味ではなく、絶対的についていけるリーダーは、そうは出ない。だから、「自分もなれないが、みんなで考えればできるし、なれる」と付け加えた。宅急便もIT化は進むが、人間中心で現場第一。デジタル時代でも、アナログのコミュニケーションを大事にして、「こうみえるかもしれないが、こうではないか?」といった問いを、続けていく。

ヤマトホールディングス社長 山内雅喜
1961年生まれ。84年金沢大学文学部卒業、ヤマト運輸入社。2003年ヤマトホームコンビニエンス取締役事業戦略室長、05年ヤマト運輸執行役員東京支社長、08年ヤマトロジスティクス社長、11年ヤマト運輸社長。15年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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