突然の「試練」から遺伝子事業始める
企業のトップに立った人には、ある種の華やかさがあるが、そこに至る道は、必ずしも平坦ではない。トップになってからも、様々な難局にぶつかる。この連載で取り上げさせていただいた方々も、何らかの厳しい試練や厚い壁に遭遇していた人が、過半を占める。
自分の将来がみえる、この仕事の次はどうなるか、想像がつく。そんな「予定調和」とも言える人生は、試練や厚い壁からは逃げられるかもしれないが、ベンチャー精神が旺盛な人には退屈で、とうてい我慢できない。でも、予測不能の人生も、大変だ。試練や厚い壁は突然、やってくる。そして、対処の仕方に定型はない。
2011年4月末、夫が癌を告知された。手術はできると言われたが、治癒の見通しは立たない。パニック状態となった。どうすればいいのか、いくつもの病院を訪ねて意見を求め、インターネットでも情報を集める。子どものころから、ほとんど泣かない。会社をつくり、2003年度下期に初めて黒字化を達成したとき、数字をみていてうれし涙が滲んだが、泣き顔は人にみせていない。でも、夫の病気では、新幹線のような衆人の視線のなかでも、涙が流れ続けた。49歳のときだ。
夫は5月10日に手術となり、病院の食堂で終わるのを待つ間、「なぜ、夫を病気にしてしまったのか」との思いが、込み上げてくる。夫婦とも職業を持ち、仕事第一できたから、体にいい食事もつくらなかったし、健康にいいこともしていない。もっと考えて、何か一つでもやっていれば、病気にならずに済んだかもしれない。
そんな自責の念に包まれたが、「過去を悔いても、仕方ない。これから何ができるか、ベストを尽くそう」との気持ちに切り替えるしかない。社長としてやりたいことがあり、もう1年、続ける計画だった。でも、夫と一緒にすごして闘病を支えるには、社長を退く以外にない。では、その後の体制を、どうするか、病院の食堂で考え始めた。半月後、社長交代を発表。ただの取締役となり、週1回だけ出勤して重要な会議には出るが、だいたいは自宅と結んだテレビ会議で臨むことにした。