これまでのホンダは日本で図面を描き、共通の部品で商品を世界展開してきた。対して伊東の「6極同時開発」では日本だけではなく、中国や北米、南米、アジアなどの拠点で同時に開発を進める。それぞれの地域に合った部品を使用できるようにして、商品のコストダウンと最適化を図ろうという大きな組織改革だった。
また、伊東と野中が同時に行ったのは、それらの新型車に搭載する「武器」の開発だ。軽自動車からV6まで、全車種のパワートレインを新開発する方針を固めたのである。
研究所では当時、V6ディーゼルエンジンやレジェンド用の新型V8エンジンを開発中だった。すでに中盤に差し掛かっているそれらの開発も中止する念の入れようで、「こんなアホなことができるのは、世界中のメーカーでうちだけですよ」と野中は今では笑う。また、新型車にDCTを搭載する準備も始まった――。
「あの頃の研究所は大騒動だったでしょうね」と伊東は語る。
「でも、だからこそ僕はリーマンショックによって救われた、と感じるんですよ。危機感が共有されていたあの時期だったから、関係各所を一つひとつ説得する必要もなく、新たな開発を一気に進められた。組織の仕組み、開発のあり方。リーマンショックはそれらを舵を切って大きく変えるうえで、ちょうどよいタイミングになったんです」
では、そうした中で始められた新車種の開発の現場は、どのようなものだったのだろうか。
(文中敬称略)
(小倉和徳=撮影)