なぜ本多は秀吉に認められたのか
秀吉は三好隊の敗報を聞き、約2万の本隊を率いて急ぎ長久手に向かった。その時、本多忠勝は酒井忠次・石川数正と小牧城の留守を預かっていたが、秀吉の行軍を遅らせるべく出陣。500の手勢を率い、大軍と小川を隔てて相並んで進んだ。しかも、秀吉の眼前で馬から下り、馬の口を洗わせるという大胆不敵な行為に及んだ。
秀吉の家臣が「討ちましょう」という声を抑えて、秀吉は「いやいや、あの様な者は生かしておくものだ。わが家中に来てはくれまいが、もし来てくれるならば、何程の重宝となるべし、とにかく手出し致すな」と命じたという。
「三傑」の三人はかくのごとく、秀吉に鮮烈な印象を与えたのだ。ではなぜ、大久保・鳥居・平岩の三人は秀吉の印象に残らなかったのか。それは、かれらが遠江・甲斐の城を守っており、小牧・長久手の合戦に参加しなかったからだ。
城主でなかったから、合戦で身軽に動けた
ではなぜ、大久保・鳥居・平岩の三人が城主に登用され、「三傑」が城主に登用されなかったのか。それは、大久保・鳥居・平岩の三人が、「三傑」の本多・榊原・井伊の三人より年長だったからだ。おそらく、家康は城主・城代クラスを登用するにあたり、ある程度、年功序列を勘案して人選したのだろう。
つまり、「三傑」は若かったから、関東入国まで城主に登用されなかった。城主にならなかったから、城を守ることなく、小牧・長久手の合戦で秀吉に鮮烈な印象を与え、秀吉から徳川を代表する家臣と認識された。そのため、10万石以上の高禄を与えられたのだ。


