「徳川四天王」は事実上、秀吉が選んだ
「徳川四天王」とは、徳川家康の有力部将である酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政の四人をいう。しかし、これは江戸時代に使われ始めた言葉である。
豊臣秀吉の時代は、酒井を除く三人を「三人衆」「三傑」と呼んでいた(『榊原家譜』による)。なぜ酒井が別扱いになっているのかといえば、世代が全く違うからだ。天正18(1590)年、小牧・長久手の合戦の時、榊原と本多は同い年の37歳、井伊はそれより13歳下の24歳。これに比べ、酒井は58歳。井伊の父親よりも年長なのだ(ちなみに家康は43歳)。
有力部将が三人いる。もう一人足して、四天王にしよう。そんな感じでセレクトされたのではないか? そして、この「三人衆」を事実上決めたのが秀吉だった。だから、「徳川四天王」をつくったのは秀吉なのである。
妹あさひの結納に「本多らを寄こせ」
小牧・長久手の合戦の後、天正14(1586)年4月、家康と秀吉の異父妹・あさひの婚儀が整えられた。家康は結納の使者に天野景能(のちの康景)を派遣した。
ところが、秀吉は「天野は我の知らざる所なり、かゝる大儀の使には酒井、榊原、本多の内一人を上らるべきに、甚だその意を得ず」(『徳川家康と其の周囲』)と立腹したという。
つまり、「天野みたいな聞いたこともない家臣を寄越すな。オレでも知ってるような重臣を寄越せ!」ということなのだが、天野家は酒井・石川家と並ぶ家老クラスで、鎌倉幕府の功臣・天野遠景の末裔。景能自身も「岡崎三奉行」の一人といわれた能吏である(ちなみに「豊臣兄弟!」で酒井忠次役の天野ひろゆきは岡崎市出身である。もしかすると一族なのかもしれない)。
おそらく天野は徳川家臣団で榊原・本多より序列が上だったのだろう。ところが、秀吉は榊原・本多の方が上だと主張。徳川家臣団内部の序列にも介入しはじめたのだ。結局、結納の使者には本多忠勝が上洛した。


