歯止めがかけられない条約空白地

しかも、インドと中国のあいだには、この川の水をどう分け合うかを取り決めた条約が、いっさい存在しません。インドが、幾度も戦火を交えてきた宿敵パキスタンとのあいだにさえ、半世紀以上つづく水の分配条約を結んでいることを思えば、中国とのあいだのこの空白は、いかにも不気味です。だからこそインドは、みずからも報復用のダムを築いて備えようとするのです。

ただし、そのインドのダムもまた、峡谷の生態系を破壊しかねないと専門家は警告しており、水をめぐる恐怖が、双方に環境破壊の連鎖を強いています。

もちろん中国は、こうした懸念を否定します。このダムは川の流れをせき止めるものではなく、隣国を犠牲にして利益を得るつもりはない、環境にも配慮し、データも今後より多く公開していく、と繰り返し表明しています。ですが、条約という歯止めがない以上、その言葉を信じるかどうかは、下流の側の不安にゆだねられたままなのです。

【図表2】争いの構図
出所=『2040年の地政学』

鉄砲水リスクの次は渇きが襲う

この対立を、いっそう危ういものにしているのが、二つの圧力の重なりです。

一つは、気候変動です。チベットの氷河は、いま急速に溶けはじめています。氷が溶けるあいだは、当面はむしろ水が増え、氷河湖の決壊による鉄砲水の危険が高まります。ですが、その先に待っているのは、氷という貯金を使い果たした「渇きの時代」です。給水塔そのものが、じわじわと干上がっていく。水が乏しくなればなるほど、その一滴をめぐる争いは、激しさを増していきます。

もう一つが、国境です。世界最大のダムが築かれようとしている、まさにその場所は、世界でもっとも緊張した国境の一つに隣り合っています。中国とインドは、1962年に、この一帯の領有をめぐって戦争を交えました。国境線は、いまも正式には確定していません。