「iPhone3G」の発売前夜、ソフトバンクの孫正義社長は、東京・渋谷区の「ソフトバンク表参道」前から1000人以上が列をなす徹夜組の前にふらりと姿を見せた。暗がりから現れた孫氏に気づき、驚きの歓声を上げる若者たち。孫氏は、徹夜の労をねぎらうように、彼らに握手を求めて歩いた。翌日、孫氏の側近の幹部は、苦笑交じりに振り返った。
「夜、『社長が表参道でお客さんと握手している』と電話がかかってきて、初めて知った。単身で駆けつけたようです」
ソフトバンクモバイルの専売特許のようになった“予想外”なる謳い文句は、社長の行動にも当てはまるようである。
対極的に、欲する獲物を確実に手に入れようとするとき、孫氏は奇手を封じる。
米アップルとのトップ交渉を重ねた孫氏は、NTTドコモに先んじてiPhone3Gの販売権を掌中にした。アップルが納得する条件を提示したのであろう。
2006年の英ボーダフォンの日本法人の買収時も、業界の誰もが驚愕する1兆7500億円という莫大な額を叩いた。
27歳にしてソフトバンク社長室長を務めた三木雄信氏(ジャパン・フラッグシップ・プロジェクト社長)は、孫氏の究極の交渉術について、こう指摘する。
「相手に『このオファーには絶対に乗ったほうがいい』と思わせる、圧倒的に有利な条件を提示するのが孫社長の交渉の極意ですね。孫社長にいわせれば、相手にぐずぐずと考えさせたりするようなオファーをすること自体がだめなんです」
社長として、部下から事業計画のプレゼンを受ける場合になると、孫氏は「1000パターン考えろ」と命じるという。
「常識に従って、楽観・普通・悲観と3パターンの計画書を持っていくと、手厳しく怒られます。『1000パターン作ってこい』と。怒られた担当者は徹夜で計画書づくりをすることになります(笑)」
1000パターンを捻り出すとなると、あらゆる前提条件を変えつつ、様々な展開を考えねばならない。三木氏は、命じる孫氏の意図を、「事業の裏にある隠れた前提をすべて引き出すため」と見る。
孫氏は、鮭の産卵を例にとって説明したそうである。1匹のメスが3000個程度の卵を産むが、成魚となって川に戻ってくるのは、オスとメス1匹ずつ、せいぜい2匹だという。事業の成否を、自然界の法則になぞらえて厳しく見ている。