だから不思議と前向きになれる
「死ぬのは楽しみ」と口にすると、真面目な人ほど眉をひそめます。「そんなこといっちゃだめ」「縁起でもない」と。でも、わたしがいいたい「楽しみ」は、「今を投げ出すための楽しみ」ではないの。
長い旅の最後に、「ああ、あの駅弁おいしかったわね」とか、「駅のベンチで見た夕日、きれいだったな」とか、振り返りながら電車を降りる、あの感じ。
「あっち側に帰る最終電車が、いつか来る。それまでは、ホームで思いきり遊んでおこう」
そんな気持ちで生きていると、「これからもまだまだ、いろいろ楽しめるなあ」と、不思議と前向きになれるのよ。
わたしにとって死は、怖い鬼のお面をかぶった、ちょっとふざけたピエロみたいなものかな。
遠くから見ると怖いけれど、近づいてよく見ると、ペンキで描いた涙がちょっとよれていたり、靴ひもがほどけかけていたりして、「なんだ、あなたも完璧じゃないのね」と笑いたくなるような存在ね。
だからわたしは、ときどき、死に向かって手を振ってみます。
「今はまだそっちに行かないけど、最後のほうでちゃんと迎えに来てね。それまでは、わたし、こっちで遊んでるからね」と。
孤独を「敵」にしないこと
わたしは、「死ぬのは楽しみ」といえるくらいまで、今日を遊んでいたいのです。「早く死にたい」ではなくて、「ここまで遊びきったら、もういつお迎えが来ても文句はいいません」という楽しみ。
そのためには、孤独を「敵」にしないこと。寂しいときは、「あらまた来たの、今日の孤独ちゃん」と、玄関でスリッパを出してあげる。
「ちょっと待っててね、今お茶を淹れるから」
そういって、お気に入りのカップを2つ出す。1つはわたし。もう1つは、今日の孤独ちゃんのぶん。向かい合って座って、「ねえ、今日はどんなおしゃべりをしようか」と聞いてみるの。
そんなふうに、孤独をお客さまとして扱っていると、そのうち、孤独のほうが少し恥ずかしがって、「今日はこのへんで失礼します」と、そっと帰っていく日もあるのよ。
そうやって、寂しさも、静けさも、ひとり時間も、全部ごちゃまぜにしながら、「まあ、なんだかんだで楽しかったわね」と、笑っていえる日を、一日一日重ねていきたいわ。
その積み重ねのいちばん上に、最後の日がぽんとのっかるだけ。
そのとき、自分に向かって、「生まれてきてよかったね。よくここまで楽しんだね」とだけいえれば、たぶん、そのまま、少し鼻歌でも歌いながら、あっち側へ歩いて行けるんじゃないかしら。
だから今日も、とりあえずお茶を淹れましょう。「死ぬのは楽しみ」といえる日が来るまで、もう少しだけ一緒に、孤独と上手に遊んでいきましょうね。

