死を前に声をあげて笑った高僧
鎌倉時代末期に中国から渡来した、清拙和尚(臨済宗)という高僧がいます。和尚は66歳のとき、自らの死期を悟りました。それまで住職を務めていたお寺を去り、小さな庵に移られて、残された時間を過ごされたといいます。
その最期の様子が伝わっています。和尚は、師匠と慕った中国の唐代を生きた百丈禅師の命日にあたる日に、弟子たちにこう告げられました。
「今日は百丈和尚の命日なり。吾将に行かん」
今日は百丈和尚の命日だ、私もそのもとにいくとしよう。そう言い終えると、和尚は大笑い。死を前に、声をあげて笑ったのです。その後、弟子たちに説法を行い、辞世の文言をしたためると、筆を放り投げて息絶えました。
何を笑うことがあったのでしょう。きっと、可笑しかったのではありません。あれは、喜びの笑いだったのではないかと、私は思います。一分の悔いもなく、やり残したことも、言い残したことも何もない。おまけに、慕い続けた師と同じ命日に旅立てる。そのことが、ただ、嬉しかったのではないか。
「定命」をまるごと受け取る
仏教に「定命」という言葉があります。
人はこの世に生を受けた瞬間に、命の長さはすでに定められている、という考え方です。ただし、最期の日がいつになるのか、誰にもわからない。50年先なのか、明日なのか、私たちには知るよしもない。
清拙和尚の笑いは、その定命を、まるごと受け取った人間の笑いだったのではないでしょうか。与えられた命を、与えられた時間のぶんだけ、精一杯燃やし切った。だから、怖くなかった。悔いがなかった。
余命を告げられた日、私たちの胸に湧くのは恐れでしょう。それは自然なことです。しかし、少し時間が経って、こんなふうに思う方もいるといいます。
「あの宣告がなければ、私はきっと今日もぼんやりと生きていた」
「生き切る」覚悟は、今日から決められる。余命宣告は、そのことを教えてくれる、文字通り最後の機会なのかもしれません。
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