人生の終わりを告げられたら、何をするといいか。禅僧の枡野俊明さんは「禅僧であっても、余命を告げられたら動揺しないわけではない。ただ、その動揺が一段落したあと、道は2つに分かれる。余命宣告を受けた方のなかには、それまでの人生にも増して濃密な時間を過ごされる方がいる」という――。
※本稿は、枡野俊明『もし禅宗の僧侶が余命一年を宣告されたら』(笠間書院)の一部を再編集したものです。
心を覆い隠す「心のメタボ」の正体
「衆生本来仏なり」。白隠禅師はそう言いました。私たちはもともと、仏様と同じ清らかな心を持って生まれてくる。これを仏教では「仏性」と呼びます。
ところが、私たちはその心をいつの間にか忘れてしまいます。日々の忙しさや人目、将来への不安。そうした煩悩が、まるで体脂肪のように心を覆い隠してしまうからです。私はこれを「心のメタボ」と呼んでいます。
そんな状態では、どれだけ自分に問いかけても、返ってくるのは欲や迷い、打算にまみれた声ばかりになります。「本来の自己」が望む人生は、厚い脂肪に阻まれて、どんどん見えなくなっていきます。
では、どうすればその「本来の自己」と出会い直せるのか。
坐禅は、1つの道です。坐禅の「坐」という字をよく見てください。「人」が2つ、土の上に並んでいます。
これは、今の自分と、自分の奥深くにいる「本来の自己」とが語り合っている姿を表しています。坐禅とは、外の騒がしい世界から離れ、自分の内側にいるもう一人の自分と向き合う時間でもあるのです。
人生が苦しいとき、迷いの中にいるとき、私たちはとかく外側に答えを求めようとします。しかしどれだけ外を探しても、本当の答えは見つかりません。答えは最初から、自分の中にあるからです。

