人生の最期を迎えるための心構えは何か。禅僧の枡野俊明さんは「私たちは、立派に死のうとしすぎているのかもしれない。禅の歴史を紐解いてみると、思わず『えっ』と声が出てしまうような、人間味あふれる最期を迎えたお坊さんが大勢いる」という――。

※本稿は、枡野俊明『もし禅宗の僧侶が余命一年を宣告されたら』(笠間書院)の一部を再編集したものです。

一休寺 一休像
一休寺 一休像(写真=Yanajin33/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

人間味あふれる高僧たちの最期

「高僧」の最期と聞いて、どのような場面を想像されるでしょう。

静かに目を閉じ、一点のゆらぎもない悟りきった表情で、安らかに息を引き取る。そんな、どこか浮世離れした姿を思い浮かべる方が多いかもしれません。

ところが、禅の歴史を紐解いてみると、そんな期待を裏切るような、思わず「えっ」と声が出てしまうような、人間味あふれる最期を迎えたお坊さんが大勢います。

そのことに、私にはなぜか、ほっとします。悟りを開いた方々も、私たちと同じ人間だったのだ、と。しかし、そこは高僧、一筋縄ではいきません。

良寛りょうかんさんは、江戸時代の後期を生きた禅僧で、生涯を通じて清貧を貫きました。また、子どもたちと鬼ごっこや鞠つきをして遊んだ。かくれんぼをすると、子どもたちが日暮れになって家に帰ってしまっても、良寛さんだけが物陰でじっと隠れ続けていた。そんな逸話が伝わるほど、おかしく、あたたかい人柄が今もなお多くの日本人に愛されています。