「あと少しの命」と知った日に

ある日突然、医師から「あなたの余命は一年です」と告げられたとしたら。

その瞬間、私たちはどのような思いが胸をよぎるのでしょうか。それは、自分の人生に「終わりの日付」を書き込まれるようなものです。昨日までは、この先もずっと続くと思っていたカレンダーに、終わりがくるのです。

私自身、その日のことを想像したことがあります。

きっと、しばらくは言葉を失うでしょう。

「ああ、ついに来たか。弱ったな。参ったな」と無言で立ち尽くしてしまう自分を、容易に想像できます。禅僧であっても、動揺しないわけではありません。恐れも、未練も、湧いてくるに決まっています。

死に向かう準備を整える時間がある、という意味では、がんのような病は残酷なようで、人生をたたんでいくための猶予をくれる、という話も聞きます。

しかしいざ自分がその立場になれば、そんな言葉は耳に届かないでしょう。まず大きなショックが来る。それが正直なところだと思います。

残された365日をどう使うか

ただ、その動揺が一段落したあと、道は2つに分かれるように思います。

「嫌だ、嫌だ」と、避けられない運命を拒みながら過ごすのか。それとも、残された365日をどう使い切ろうかと、少しずつ前を向いていくのか。終わりが見えたとき、人は初めて「今日」の重さに気づくのかもしれません。

不思議なことに、余命宣告を受けた方のなかには、それまでの人生にも増して濃密な時間を過ごされる方がいらっしゃいます。

会いたい人に会いに行く。伝えたかった言葉を、今度こそ口にする。食べたかったものを味わい、行きたかった場所へ足を運ぶ。あるいは、自分の思いを書き残し、後の人へ伝えたいことを整理する。そんなふうに生きることができれば、その一年はそれまでの数十年分にも増して、豊かなものになるかもしれません。

笑顔のシニアカップル
写真=iStock.com/tkpond
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「明日がある」と思うから、私たちは大切な言葉を飲み込み、成すべきことを先延ばしにして平気でいられるのです。しかしもし今日が最後の1ページだとしたら、目の前の一杯のお茶さえ、どれほど深く染み渡るでしょう。

自分にとっての「なすべきこと」を、一つひとつ、丁寧に成していく。それが、庭の落ち葉を1枚拾うことだけであったとしても、心を込めて成したならば、それはもう、立派に「生き切った」と言えるのではないか。私はそう思います。