攘夷への評価は歴史学の争点の一つ
アジアでは〈西洋〉の進出に伴って、中国ですでに1850年から太平天国の乱が起こり、1857年にはインドでセポイたちの反乱がなされています。
「外国政府」(=〈西洋〉)は、すでにアジアで手痛い反乱(=「異常な緊張力」)に出合っており、そのため「日本」には、本格的な攻撃を仕掛けてこなかったと解釈するのが、1960‐70年代の歴史学での議論でした。
たとえば、歴史家が書いた幕末期の通史『開国』(芝原拓自、1975年)は、1850‐60年代の時期の歴史像を「外患と世直しの問題こそ」「幕末・維新史の底流をなしている」と説明しています。
攘夷の歴史的な評価については、歴史学でも長いあいだ争点となっているところですが、「他のアジア人とちがい」があるのではなく、〈西洋〉がそれぞれの地域にやってきた時期のわずかな違いに注目する解釈がなされています。
「奇兵隊」は一般民衆を利用した?
司馬はといえば、〈西洋〉に敗戦した長州藩が高杉晋作に「奇兵隊」を構想させ、それが採用された、と話を進めていきます。「暴走」したはずの長州藩の賢明さを語る箇所ですが、事態はもう少し複雑に進行しています。
正規軍に参加できない階層の人びとが、「自主的な郷土守備組織」(芝原)となり、奇兵隊をはじめとする10隊あまりの諸隊が結成されるのですが、さきの芝原拓自『開国』は、「一般民衆は、尊擾派暴客たちの暴挙のために寝耳に水の死地に直面させられ、その動転のうちに、かれらの素朴な郷土愛や正義感あるいは外国への偏見でさえもが、外敵対峙の方向にデマゴギー的に動員されたのではなかろうか」と解釈します。
司馬が竜馬や高杉ら下級武士に期待をかけるのに対し、歴史家としての芝原さんは「一般民衆」(=農民)に着目しており、そのために〈西洋〉との緊張関係については共有しつつも、司馬とは異なった解釈と歴史像が提出されています。
こうした緊張のなか、勝海舟が神戸に創設した海軍操練所に、竜馬はこもりきりになります。司馬は、竜馬のことを「時勢」を「横目でにらみながら、こういうまわりくどい道をひとり歩く」とし、「忍耐力が要った」と描くのです。
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