司馬が描いた「経済人」としての顔

竜馬が忘れられていただけではありません。竜馬像の解釈にも、歴史的な変化がみられます。日露戦争や大正デモクラシーなど政治状況のなかで、その文脈において竜馬が呼び戻されます(この点については、司馬自身が単行本「回天篇」の「あとがき」(文庫版では「あとがき 五」)で、竜馬論の系譜をたどってみせています。なお、司馬はふれていませんが、戦時中にも竜馬はとりあげられていました)。

戦後はまた忘れられるのですが、竜馬を思い出させ、さらにこれまでとはまったく異なる竜馬像を提供したのが、『竜馬がゆく』という作品にほかなりません。

合理主義者にして経済人である、坂本竜馬。現在の読者にとっての竜馬は、この司馬の描く竜馬ということになるでしょう。司馬は、勝海舟が神戸に設立した海軍操練所の塾頭となり、海援隊を結成し、経済活動をしていく竜馬像を強調するのです。また、大政奉還を推進した平和革命論者としても論じていきます。

ここでは、激動を始めた幕末維新期の司馬の歴史認識に注目しつつ、司馬の竜馬像を軸に『竜馬がゆく』を読み進めてみましょう。あわせて、近代の日本が形成される過程が、『竜馬がゆく』においてどのような解釈で描かれているかを、物語の展開を追いながらたどってみましょう。

「新選組に襲われる場面」の背景

竜馬のこの時期、文久三年の夏である。
時ははげしく動いている。
坂本竜馬といえば、そのゆくところかならず風雲おこるといわれたほどに時の動きをみるのに機敏な男になったが、しかしこの時期はなお、
風雲
に参加していない。(4‐148)

司馬自身が、「時勢」が動くなかでの竜馬の位置を決定しかねています。評価の分かれ目は、神戸の海軍操練所における竜馬をどのように評価するかということです。

尊王攘夷派の兜かぶと惣助によって、勝につき、開国航海論を振り回していると難詰された竜馬は、「それが、わしの攘夷論じゃ」と反論する設定がなされ、司馬は攘夷のための攘夷を批判し、竜馬にそこから距離をとらせます。

司馬は、「日本」の立場にたち、「文明」を考える竜馬像を提出し、この観点から「文久三年」の竜馬も描いています。そのため、兜のような攘夷派からは開国派にみられますが、佐幕派からは攘夷派に与しているようにみられることになるでしょう。そうした竜馬像が、示されています。

竜馬が新撰組に襲われる場面が挿入されるのは、竜馬が攘夷派とも考えられていたという解釈に拠っています。この時期、京都の町を中心に攘夷派による開国派への攻撃=「天誅」が横行し、それに対抗するようにして、攘夷派を検断する新撰組が登場してきます。その新撰組に、竜馬が襲われる場面を司馬は挿入します。