古典を判決文にしてはいけない
ただし、社会の亀裂を見抜くことと、その解決を強い支配者に任せてよいことは別だ。この点で参照したいのが、佐々木毅氏の『プラトンの呪縛――二十世紀の哲学と政治』である。同書は、プラトンが社会改革の思想として評価される一方、民主主義や自由に敵対する思想として厳しく批判されてきた経緯をたどっている。
その批判を代表するのが、カール・ポパーだ。佐々木氏が別の論考でも説明しているように、ポパーは『開かれた社会とその論敵』で、プラトンを全体主義に連なる思想の源泉の一つとして批判した。社会の秩序を誰が設計し、誰がその正しさを決めるのか。優れた知を持つ者に統治を委ねる構想は、人々の異論や自由を閉ざす危険を伴う。プラトンは現代を見通す知恵として称賛されてきただけではない。
だから私は、プラトンの診断を、そのまま現代の処方箋にはしない。問うべきは、誰が正しい答えを独占するかよりも、異論を聞き、失敗した政策を修正できるかである。トランプ氏にも左派候補にも、この基準を具体的な言動に即して当てたい。古典を特定の政治家への判決文にせず、私たち自身の判断を問い直すために使う必要がある。
“不満”を票に変えるのか、“不安”を票に変えるのか?
私は、左派の伸長は民主党にとって、得票を増やす機会にも接戦区の負担にもなると見る。生活を変えたいという期待を新たな投票参加と幅広い支持に変えられれば、民主党の力になる。変革への不安が先に広がれば、その勢いは共和党が支持を固める材料にもなる。11月3日は、この2つの力が接戦の現場でぶつかる。
その分かれ目は、生活の負担を具体的に下げる道筋を示し、政策を実行できるという信頼を得られるかどうかだ。期待を抱く人を動かすだけでなく、変化を警戒する人にも届かなければならない。ミシガンでは、左派の動員力と、トランプ氏の攻撃が無党派層に届く力の両方が試される。予備選の勝利だけでは、この争いの答えは出ていない。
日本から見ると、資本主義の中心で社会主義への期待が広がること自体が意外に映る。しかし、「自由に挑戦できる」と言われても、その挑戦を始める条件がないと感じる人には、政治に条件を変えてほしいという要求は切実だ。プラトンが描いた困窮から政治への転換と、トクヴィルが論じた平等への愛着は、その要求を内側から理解する手掛かりになる。
11月3日にどちらが勝っても、住宅を持てず、生活の見通しを立てられない人々が翌日から消えるわけではない。社会主義という言葉を退けることはできても、その言葉に期待を寄せた理由まで退けることはできないのである。
検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます


