「努力が足りない」という説明では届かなくなる
NARの調査は、2024年7月から2025年6月に住宅を購入した人々を対象としている。報告書が指摘するのは、手の届く価格の住宅の不足と、購入資金の負担だ。初回購入者は、頭金を貯める妨げとして高い家賃や学生ローンを挙げている。
住まいのために貯蓄したいのに、いま住む家の家賃が貯蓄を難しくする。将来のために受けた教育の返済が、次の生活設計を圧迫する。ここでは、努力することと、生活の基盤を得ることの間に、簡単には埋まらない距離がある。
この距離を考えるとき、『国家』第8巻の一節が重く響く。ソクラテスは、富を持つ支配者が、人々の財産の喪失を抑えず、貸し付けや財産の取得によってさらに豊かになる様子を描く。そして債務を負った人々は、財産を手に入れた側を憎み、政治の変化を望むようになる。
プラトンの記述には浪費への批判もあり、現代の学費や住宅費をそのまま重ねることはできない。注目するのは、不満の向かう先が変わる過程だ。
暮らしの苦しさを自分の努力不足だと考えるうちは、自分を変えようとする。しかし、努力しても報われにくい仕組みがあり、その仕組みから利益を得る人がいると受け止めれば、変えてほしい相手は政治になる。
私は、若者の社会主義への期待を考える際、この転換を見落としてはならないと思う。住宅取得の難しさだけで政治的な立場は決まらない。それでも「もっと頑張ればよい」という説明が届かなくなる条件を、この現実は示している。
自由に競争できるだけでは足りない
では、なぜ、その要求が社会主義という言葉に向かうのか。住宅や医療に不満があっても、減税や規制緩和を求める道もある。社会主義への期待は、困窮から自動的に生まれるものではない。
そこで重要なのが、不満をどのような政策に結びつける政治家がいるかである。医療費を家計だけに負わせない。住宅の負担を軽くする。巨大企業への力の集中を是正する。こうした提案が、自分の生活を変える選択肢として届くとき、社会主義という言葉の響きも変わる。
トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』第2巻第2部第1章で、民主社会の人々が自由以上に平等へ強い愛着を抱く理由を論じている。自由の利益が時間をかけて現れるのに対し、平等の利益は日々の生活の中で広く感じられる、と説明する。
この議論を現代に引き寄せるなら、自由に挑戦できるという約束だけでは、挑戦に必要な条件を持たない人の不満は解けない、ということだ。家を買う自由も、教育を受ける自由もある。しかし、費用を負担できなければ、その自由を十分には使えない。
私は、社会主義への期待の一部を、生活を築く条件を政治によって整えてほしいという要求として読む。自由を捨てたいということと、自由を使える条件を求めることは、同じではない。
ギャラップの57%は制度を選ぶ投票ではなく、言葉への肯定的評価である。同じ調査では、米国成人全体の95%が小規模事業を肯定する一方、大企業への肯定は35%だった。企業活動への支持と、現在の経済の担い手への不信は両立している。社会主義への好意を、市場や商売への全面的な拒絶と読むと、この違いを見失う。

