『進撃の巨人』
『進撃の巨人』の魅力といえば、激しいアクションや驚くような展開もさることながら、見る者の思い込みが揺さぶられる点だろう。
序盤においては、敵が何者かは明らかだし、何が善で何が悪かもはっきりしている。ところが話が進むにつれ、登場人物たちの行動の動機は、当初思っていたものよりも複雑であることが分かってくる。そしてどの集団も何らかの罪を犯している。
それとともに、物語のテーマともいえる問いが浮かび上がってくる。自由とは何を意味するのか。人は自由のために何を犠牲にできるのか。暴力で自由は手に入るのか。安全は抑圧を正当化できるのか――。
この物語が強い力を持つのは、暴力で問題を解決したものの、そのこと自体が新たな問題を生むことに登場人物たちが気付くからだ。報復で紛争を終わらせることはできない。
信頼できるのは誰なのか、困難な決断をどう下すべきか、善良な人間が恐ろしい行為に手を染めることはあるのかといった、普遍的な問いについても視聴者は考えさせられる。それは自由の対価は何かという、文化の違いを超えた大きな問いにつながっていく。また、この作品は「どちらが正しいか」ではなく、どの選択肢を選んでも道義的な代償が避けられない場合には何が起きるかという問題を繰り返し提起する。
『僕のヒーローアカデミア』
『僕のヒーローアカデミア』を見れば、日本アニメの世界的な人気のもう1つの理由が分かる。それは、ヒーローを単に力と勝利という側面から描くのではなく、成長と教育、責任感、そして道徳的な人格形成という側面から描いている点だ。
スーパーヒーローといえば『アベンジャーズ』でおなじみだが、彼らが最初から特別な存在なのに対し、『僕のヒーローアカデミア』のヒーローたちは発展途上だ。序盤、主人公の緑谷出久(みどりやいずく)は力も自信もなく、夢をかなえるなど思いもよらない。
この作品では、生まれついてのヒーローはいないということが語られる。ヒーローは努力の末になるものだ。強くなることは大切だが、人間性を高めることはもっと大切だ。出久の憧れ、オールマイトが強い印象を残すのも、肉体的な強さよりも、勇気や謙虚さ、奉仕の心、自分より他の人を優先する姿勢があるからだ。
雄英高校を舞台とすることで、人間は仲間と共に成長するものだということも描かれる。向上心を後押ししてくれるのはクラスメイトやライバルたちだ。出久たちは力を使う方法だけでなく、責任ある大人になるとはどういうことかも学んでいく。
『僕のヒーローアカデミア』は、スーパーヒーローの物語の枠組みに、大人への成長という要素を盛り込んだ。視聴者は登場人物たちの成長したいという思いを自分に重ねる。この物語は「人をヒーローにふさわしい存在たらしめるものは何か」と問う。だからこそ、世界的に共感を呼べるヒーロー物語たり得るのだ。
『鬼滅の刃』
『鬼滅の刃』シリーズは、なぜアニメ史上最大級のヒットとなったのか。圧倒的な映像美と印象的なバトルシーンもさることながら、その根底に潜む喪失の悲しみ、慈悲心、自己犠牲、倫理的な葛藤も見逃せない。
主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)の旅の始まりは壊滅的な喪失だ。彼の留守中に妹の禰豆子(ねずこ)を除いて、家族全員が鬼に殺されてしまう。だが彼を突き動かすのは復讐心ではない。鬼になった禰豆子と、失われた家族との絆を守りたい一心で、鬼討伐を誓う。
炭治郎は人間だけでなく鬼にも哀れみを覚える。やむなく殺すときでさえ、鬼たちも元は人間で、苦しみの果てに鬼になったことを心に刻む。
このシリーズを特徴付ける倫理的な教訓は「勝利すれば、それだけで心が満たされるわけではない」というもの。作中には絶えず念仏を唱え、涙を流す悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)のように、驚異的な戦闘能力を持ちながら、悲哀と慈悲を胸に秘め、おごり高ぶることを知らない剣士たちが登場する。
彼らの多くは自己より他者を優先する。家族や仲間、見知らぬ誰かを守るためなら、喜んでわが身を犠牲にするのだ。英雄とは栄光を手にする者ではなく、自らを差し出す者。こうした哲学が『鬼滅の刃』に並外れた感情的な深みを与えている。
妖怪伝説や日本の神仏信仰に基づいた宗教的なテーマが独自の物語を生み出した。キリスト教圏に見られる、贖罪と勧善懲悪を描いた物語とは対照的に、『鬼滅の刃』をはじめ多くの日本のアニメ作品は、日本の文化的な伝統に根差した要素――無常観や因果応報、万物への慈悲といったものを取り入れている。
これまで見てきたように、支配よりも調和を重んじる精神が日本アニメの特徴だ。『鬼滅の刃』もまた、家族と共同体への責任、苦難を通じた人間的な成長を描いている。慈悲と自己犠牲、苦境にあっても他者を守ろうとする姿勢こそが強さの証し――シリーズ全編を貫くこのメッセージは観客の心を捉えて離さない。
