加害熊は被害者を「エサ」と認識していた
別の資料によれば、
この熊は一カ月ほど前に、豊羽鉱山の入口の一の沢で射止め損なった手負いの熊だった。このときも、獰猛な奴で、銃口を向けると、猛然と猪進して来たということだった
とのことで、
あとから馬を走らせていた三人には目もくれず、傍らを通り抜けて、まっしぐらに最初に狙ったこの人を追いかけていったということである。(中略)熊獲り名人の談義によると、手負い熊は例外なく人間をみると襲いかかるし、いちど人間の味を覚えた熊はとことんまで執拗に人間に襲いかかると話していた(「中山峠と人食い熊 渡辺整」、『農業北海道』昭和三十四年十二月号)
遺体が「埋没されていた」ことや、前記名人談義からも、加害熊が被害者をエサと認識していたこと、そして以前にも人肉を喰った経験があった可能性が示唆されている。
この事件から4年後の昭和17年、今度は千歳市で事件が発生した。
千歳郡千歳町小山田ナミ子さん(一九)は去る十七日午後二時頃、野草採取のため同町字鳥棚舞方面へ出かけたまま行方不明となったので捜査中のところ、二十日午後三時頃、二里半〔約十キロ〕ほど離れた山中で熊に喰われ惨死体となっているのを発見され、附近住民は目下総出で熊狩り中である(「北海道新聞」昭和17年11月23日)
若い男性が徴兵され、ヒグマの個体数が急増
戦争中は食料難のために、主婦が連れ立って、相当な山奥まで山菜を採りに行ったという話を、筆者も祖母から聞いたことがある。これらの中には、人知れずヒグマに襲われて亡くなった人もいただろう。
しかし未曾有の国難の時代にあって、ヒグマに関する事件記録は、残念ながら皆無に等しい。
またこの時期は、若い男性の多くが徴兵されたために、ヒグマの個体数が急増したと考えられる。
それが飽和状態に達したのが昭和20年代後半であり、彼らが人間に牙をむくきっかけとなったのが、〈1953(昭和28)、1954(昭和29)、1956(昭和31)年の相次ぐ冷害による凶作〉(小内透「戦後北海道の地域社会変動」、『現代社会学研究』第10号、1997)であった。

