「自己責任」を広げた首相の名前

クレアモント教授は、政府の責任を個人や家族に移す動きが、1990年代以降の新自由主義化の中で強まったと指摘する。とくに小泉政権(2001-2006)は、労働者や安全保障までを、「自己責任」として個人に引き受けさせる考えを広げたと論じている。

小泉純一郎 内閣総理大臣(第87代)
小泉純一郎 内閣総理大臣(第87代)(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

そして自己責任は、結果的に「国家の説明責任から目をそらす強力な仕組み」として働いたという。

カナダのコンコルディア大学のマシュー・ペニー教授は、その「自己責任」がどんな論理なのかを、さらに直接的に説明している。

2024年の論文の中で、自己責任を「貧困の責任を貧しい人自身に負わせ、構造的要因を無視する新自由主義的言説」と定義した。さらに、貧しい人に「もっと働け」と求めながら、国家が担ってきたケアの責任まで、個人や家族へ移すものだと批判している。

俯瞰するに、1990年代から2000年代の日本で、アメリカ型の市場化と考え方が、日本にもともとあった「自助」の思想と結びついたと言っていいだろう。同時期から、雇用や生活保障をめぐるリスクは、政府や企業が引き受けるものから、個人が自分で背負うものへと変わっていった。

こうした自己責任という意識は、日本だけのものではない。ただ日本ではそこに、「助けを求めるのは恥」「人に迷惑をかけてはいけない」という意識が重なる。

問題を家族で解決する傾向

ワシントンポストは日本のシングルマザーの貧困を、「恥の文化」として取り上げた。助けを求めることに感じる「恥」が、必要な支援を受けにくくしているという。

もっと強い言葉を使ったのは、英ガーディアン紙だ。

日本の高齢者を扱った映画『PLAN 75』の早川千絵監督へのインタビューで、「日本の『自己責任』という考え方は、強迫観念のようになっている」という監督の言葉を引用している。

さらに監督は「政府に頼るのではなく、自分のことは自分で面倒を見なければならないという考えが広がり、それが高齢者や弱者への敵意につながっている」とし、「福祉を必要とする人に恥を感じさせているのは政府とメディアだ」と批判する。そのため、本来支援を必要とする人まで申請をためらうというのだ。

そこには、家族の存在も関係する。前出のアリソン教授は、日本では長らく家族が福祉を担ってきたと指摘する。問題を家族の中で解決するという傾向が強く、家族がいない人ほど生活が不安定になりやすいという。

つまり日本では、市場のリスクを個人に負わせる動きに、日本独自の恥と迷惑回避、さらに家族への依存という規範が重なっていると見ることができる。