秀吉の書状に残る茶々への思い
ドラマなどでは秀吉を見下し、高慢に描かれがちな茶々ですが、秀吉の書状からはそれとは異なる姿が見えてきます。天正18年(1590)4月、秀吉は後北条氏攻めのため小田原におりましたが、その時、正室・寧(北政所)の侍女「五さ」に宛てて書状(4月13日付)を書いています(五さ宛ではあるが、実際には寧への書状と言って良い)。
ちなみに天正17年(1589)、茶々は秀吉との間に鶴松という息子をもうけていました。秀吉は書状の中で「若公」(鶴松)を恋しく思ってはいるが(北条氏を討伐し)、天下を穏やかにしたいと思っているので「恋しき事も思ひきり」(恋しい気持ちを忍ぶ)と書いています。その上で「よどの物」(淀の者=茶々)を小田原に呼びたいと告げるのでした。茶々を小田原の陣中に呼びたいので、その事を寧より命じて用意させよと言うのです。
「茶々は細やかに仕えてくれる」
秀吉は同書状の中で、茶々は寧に続いて私(秀吉)の「きにあい候ようにこまかにつかれ候」(気に合うように細やかに仕えてくれる)と述べています。よって心安く思い、茶々を呼び寄せるというのです。この秀吉の書状からは茶々が献身的に夫・秀吉に仕えていたことが分かります。ドラマで描かれてきたように秀吉を見下したり、偉そうにしている茶々の姿を見出すことはできません。また秀吉も茶々の態度を気に入り、寵愛していたことが窺えます。
秀吉の要望に応え、茶々は小田原の秀吉のもとに向かいます。鶴松は残念ながら天正19年(1591)に夭折しますが、茶々は文禄2年(1593)に拾(後の秀頼)を産むことになります。同年、秀吉は茶々に書状を出していますが、そこには「すこしも、もの気にかけ候まじく候」(少しも物事を気にかけてはならない)と産後の茶々を気にかける文言が見えます。

