撤退は敗北ではない

一般的に、旧日本軍というと、「玉砕」「精神論」「一歩も退かない」というイメージで語られることが多い。しかし、実際の『作戦要務令』を読むと、そこには極めて現実主義的な戦略思想が書き込まれている。

その典型が「撤退戦」に対する考え方である。『作戦要務令』では、退却戦について次のように規定している。

「退却戦闘指導の主眼はすみやかに敵と離隔りかくするに在り」

ここで重要なのは、「敵を撃破すること」ではなく、「速やかに離隔すること」が主眼とされている点だ。

つまり、『作戦要務令』において、撤退は敗北ではない。組織を生き残らせるための戦略的判断なのである。ここには、旧日本軍に対する一般的イメージとは異なる、冷徹な合理主義が存在している。

戦略とは「勝利」ではなく「生存」の技術

戦争において、本当に重要なのは「その戦闘に勝つこと」ではない。組織そのものを崩壊させないことである。戦線が不利になった時、重要なのは「勇敢に戦い続けること」ではなく、どこまで後退し、どこで戦力を再編し、どの資源を残すかという判断になる。つまり、戦略とは「勝利」ではなく、「生存」の技術なのである。

戦後、この『作戦要務令』を企業経営論として読み替えた人物がいる。前述した元陸軍参謀の大橋武夫だ。大橋は、戦争末期に第五三軍参謀として本土決戦準備に関わり、戦後は倒産企業の再建にも携わった。

『作戦要務令』について、大橋は「組織の効果的運用を説いた優れた経営書」であると評価している。特に重要なのが、撤退に関する次の指摘である。

「負けたための損害は想像するほどのものではなく、退却がまずいために受ける損害が意外に大きく致命傷となり、ほんとうに負けるのである」

これは現代企業にもそのまま当てはまる。多くの組織は、「敗北」そのものではなく、「撤退できないこと」によって崩壊するからである。

佐藤優『戦略の罠』(フォレスト出版)
佐藤優『戦略の罠』(フォレスト出版)

現在、世界は新・帝国主義の時代に入っている。そのため、アメリカ、中国、ロシアという巨大国家の圧力の中で、日本は戦後型の成功モデルを修正せざるを得なくなっている。しかし、多くの日本人はいまだに、「グローバル化は正しい」「市場は拡大し続ける」「成長こそ正義」という戦後の成功体験から抜け出せない。

ここに「戦略の罠」がある。

過去の成功モデルが、未来において組織を拘束し始めるのである。『作戦要務令』が教えているのは、この逆だ。重要なのは、「いかに勝つか」ではない。「いかに崩壊しないか」である。時に後退し、時に戦線を縮小し、時に不利な戦場から離れる。その上で、戦力を維持し、次の局面へ備える。

撤退とは敗北ではない。生存するための高度な戦略なのである。