父と向き合った28歳の決断
野呂さんが目指したのは、意外にもミュージシャンだった。
きっかけは10歳のとき、叔父からギターをおそわったことだ。「お前、筋がいいぞ」と褒められたのがうれしく、ビートルズやベンチャーズからレッド・ツェッペリンへとのめり込んでいく。仲間とバンドを組み、学校の文化祭で演奏するようになると、いつしかプロを夢見るようになった。
大学卒業後もバンド活動を続け、解散後はソロに転じた。家業を継ぐつもりもなければ、一般企業に就職する気もない。20代はライブハウスのマネージャーをして生計を立てながら、音楽制作をしていた。
音楽の道で食べていきたいと語る息子に、父はつねに厳しかった。「あきらめろ」の一言に感情を抑えきれず、殴り合いになった日もあった。
転機が訪れたのは1981年。28歳のとき。母が病気で倒れたことをきっかけに、普段は口をほとんど利かなかった父と向き合った。当時、ライブハウスの仕事に行き詰まり、プロへの道に限界を感じ始めていた野呂さんは、将来への悩みを率直に打ち明けた。
すると父は意外にも穏やかな口調でこう答えた。
「その日の父は、思いのほかやさしく話を聞いてくれました。『いつまでも夢見ていられる年じゃない。自分で考えて、結論を出したら話しに来い』と。すでに結婚して長男も生まれていたので、妻とも相談して最終的に納豆屋になることを決めました」
「百貨店で売れる納豆」をつくる
夜の仕事から、昼間の堅気の世界へ。
家業に入ることを決意しても、音楽への未練がすぐに消えたわけではない。
「未練はずっとありました。休日に楽曲制作をしようと企んでいたのですが、とても音楽をする時間がなかったんです」と苦笑する。
野呂さんは営業の手伝いから始めた。職人としての腕と質へのこだわりを持つ父とは、方向性の違いでぶつかることもあったが、率直に意見を交わした。この「対話」の姿勢は、その後の野呂さんの経営を支える一本の軸になっていく。
当時、父が廃業を考えるほど、店の経営は厳しかった。野呂さんが最初に変えようと考えたのが、価格で競わない商品づくりだった。
「安い納豆をいくら売っても、うちの規模では儲からない。だから高質な納豆を目指そうと思ったんです。実際につくれる技術はありましたから」
1980年代はスーパーの流通が伸び、大手メーカーが大量生産・大量販売を進めていた。小さな納豆会社が同じ土俵で戦えば、設備投資でも価格でも勝てない。野呂さんが活路を見いだしたのは、祖父から受け継ぎ、父が磨き続けてきた納豆づくりの知識と経験だった。
目標にしたのは「百貨店で売れる納豆」だ。当時、納豆が百貨店に並ぶこと自体が珍しく、贈答品になるなど考えにくい時代だった。
そこで、自社ブランドを立ち上げ、職人の技術を前面に出した納豆づくりへ舵を切った。1983年、「鎌倉山納豆」が誕生した。
目指したのは、ただの値段の高い納豆ではない。国産大豆を厳選して豆本来の甘みを引き出し、透明で力強い糸引きと、嫌な匂いや雑味の少ない味わいを追求した。父は当初、ブランド化に半信半疑だったが、最後は野呂さんの考えを受け入れ、後押しした。
「うちの納豆なら、必ず勝負できる」
子どもの頃から父の納豆を食べ続け、その味を知り尽くしていた野呂さんには、確かな自信があった。


