「最高の商品です」と高島屋に売り込んだ

とはいえ厳しい経営状況のなか、高級路線への転換に使えるお金はほとんどなかった。野呂さんにできたのは、知恵を絞り、商品の価値を伝えようと、百貨店に何度も足を運ぶことだった。

そのなかで、「鎌倉山納豆」に最初に関心を持ったのが高島屋だった。横浜・港南台への出店にあたり、バイヤーが地元の食材を扱う企業と面会する機会を設けた。

野呂さんは、昔ながらの経木に包まれた看板商品「手づくり小粒」を持参し、担当者にその場で食べてもらった。そして、豆の味、匂い、糸の味、糸引きの強さ、豆の硬さについて、一つひとつの感想を聞いた。

「とにかく召し上がってください。この納豆が、わたしたちにつくれる最高の商品です。百貨店で売れる最高レベルの手づくり納豆です。お気に召していただけたら、いつでもお声がけください」

反応は上々で、そのまま取引開始の話が進んでいった。

高島屋で反響を得ると、横浜、日本橋、玉川の店舗で催事出店が続いた。1987年には、売り場の大幅なリニューアルを進めていた日本橋高島屋から、常設のオファーが届く。当初の目標だった贈答品としての取り扱いも実現し、高島屋への出店は約13年間続いた。

「高島屋への出店で得たものは、本当に大きかったですね。販売のノウハウや、お客様との接し方、包装紙の包み方まで教わりました。その経験が全部、自分たちの財産になったのです。だから次は、自分たちの店を出したいと思いました」

百貨店での販売を続ける一方、野呂さんは父と何度も話し合った。経営に対する考え方でぶつかり、互いの判断を理解できないこともあった。それでも野呂さんは、「自分を経営者にしてほしい」と率直に伝え続けた。

「父も、早く社長の座を譲りたいという気持ちだったようです」

1997年、野呂さんは42歳で代表に就任した。高島屋で培った経験を胸に、自らの経営を始めた。

会社の歩みを振り返る野呂さん
筆者撮影
会社の歩みを振り返る野呂さん

「手伝う人」から「会社を支える仲間」へ

代表に就任した野呂さんが、まず向き合ったのは、会社としての基盤を固めることだった。

「ちゃんと役に立って、働いてくれる人を大事にしなきゃ、と思いました」

それまでは家族経営で、従業員がいても“手伝ってくれる人”という感覚だった。しかし、代表になったことで、会社を支える仲間として社員と向き合おうと考えた。

職人気質だった父の時代には、社員の声を聞くという発想がなかった。だからこそ野呂さんは、何でも言い合える会社をつくろうとした。社員に積極的に相談し、周囲を巻き込むうちに、会社の雰囲気は少しずつ変わり、笑顔も増えていった。

今では社員は社長を相手にしても遠慮しない。問題に気づけば率直に伝え、改善策も提案する。父の頃から働く社員は、家族のような存在になった。

「『そんなに正直に言う?』というくらい、何でも話してくれます。僕にものを言いにくいやつは、世界中にいないと思うよ」と笑う。

「経営者と社員は、まったく逆の立場。そういう人たちが、ひとつのコンセンサスで固まれるのが、仕事の面白さのように思います」

社員との対話を重ねながら、野呂さんは家族経営の「納豆屋」を、少しずつ一つの会社へと変えていった。

本店2階の製造工場で作業をするスタッフ
筆者撮影
本店2階の製造工場で作業をするスタッフ