一人ですべてを決めたほうが早いかもしれない。それでも野呂さんは、周囲の声に耳を傾け、互いの考えを理解するまで話し合う方法を選んできた。そうして築いた仲間との関係は、ときに仕事の枠を越えた。

全国納豆協同組合連合会の青年部で知り合った、兵庫県姫路市の納豆業者も、そうした仲間の一人だった。その男性は、阪神・淡路大震災で家と工場を失い、苦労の末に事業を再建した経験を持っていた。

東日本大震災が起きた後、その仲間が言った。

「納豆を袋に入れて配って、『がんばりや』って言われるだけでもうれしいんだ。だから今度は、俺たちが東北へ行かなきゃいけない」

その言葉に背中を押され、青年部の仲間7人で東北へ向かい、納豆を配った。

「自分が経験したことを、今度は人に返そうとする。気持ちがいいですよね。いいことを思いつくなと思いました」

野呂さんが大切にしてきた「対話」は、言葉を交わすことだけではない。人との縁を育み、相手の思いを受け取り、行動へとつなげていくことでもあった。

そうした長年の功績が評価され、野呂さんは2025年秋、旭日小綬章を受章した。野呂さん個人だけでなく、納豆業界にとっても大きな栄誉となった。

20年続く朝市に感じる「愛」

その野呂さんが、いまも大切にしているのが、20年間続けてきた“納豆の朝市”である。

日曜日、朝市に立つのは、野呂さんと息子と、手伝いのスタッフ一人だけ。スーパーでは値引きをしない鎌倉山納豆の商品を、この朝市では特別価格で販売する。職人の技で丁寧につくった納豆を、社長自ら店頭に立って販売し、その分を客に還元する。それもまた、野呂さんらしい商売の形なのだろう。

朝市を始めた当初、野呂さんが町を歩き、チラシを配ったという。

「この辺で、納豆屋をやっています。鎌倉山納豆です。朝市をやるので、よかったら来てください」

すれ違う人たちに声をかけながら、一枚ずつチラシを手渡していった。

「愛を感じているんだよ、この朝市にね」

早朝から続く行列の先にあったのは、納豆への愛情と、人とのつながりを大切に育んできた、野呂さんの歩みだった。

インタビューを受ける野呂さん
筆者撮影
安売り競争に乗らず、職人の技を守ってきた。その選択が今の納豆につながっている
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