帝都空襲に山本が抱いた強い危機感
この時、米軍機の機銃掃射を受け、葛飾区の水元国民学校の生徒が死亡しています。もちろん国際法違反です。12.7ミリ機銃の弾丸は、その名の通り、直径20ミリ、1.3センチほどもあって、驚くほど大きい。葛飾区は今も、この機銃掃射でえぐれた廊下の板や機銃弾などを保管し、区の博物館に展示しています。私も見たことがありますが、戦争の恐ろしさを実感させられるようなものですね。
しかしながら、いくら大型爆撃機といえども16機くらいではそれほど大きな戦果は見込めません(表6 ドーリットル空襲の被害)。日本の陸軍報道部も、東京空襲の指揮官の名は、ドゥ・リトル(Do little)だが、実際は、ドゥ・ナッシング(Do nothing)だったと揶揄しました。
けれども、陸海軍指導部にとって、ドーリットル空襲は一大衝撃だったのです。戦争末期に連日のように空襲を受けて、東京ばかりか主要都市が焼け野原となったことを知る後世のわれわれには、かえってわかりにくくなっているのですが、当時の人々にとっては、天皇陛下がおられる帝都東京が爆撃されたというのは、天地がひっくり返るような一大事でした。
とくに山本五十六は、ドーリットル空襲によって深刻な事態となったと認識していました。本土空襲があれば、国民は士気沮喪し、戦争継続が難しくなるだろうと開戦前から危惧していたからです。山本が海軍大臣の嶋田繁太郎に出した書簡から引用しましょう。
「ロシアのスパイ」と侮辱された海軍
「〔前略〕万一、敵機東京・大阪を急襲し、一朝にして、此両都府を焼尽せるが如き場合は勿論、左程の損害なしとするも、国論(衆愚の)は果たして海軍に対し、何というべきか、日露戦争を回想すれば、想半ばに過ぐるものありと存じ候」(昭和16年10月24日付書簡、『大分県先哲叢書堀悌吉資料集』、第一巻、大分県教育委員会、2006年)。
日露戦争の序盤、日本海軍はロシアのウラジオストック艦隊にずいぶんと悩まされました。東郷平八郎率いる戦艦部隊(第一艦隊)は、敵主力のいる旅順に張り付いていましたので、こちらには上村彦之丞率いる装甲巡洋艦部隊(第二艦隊)があたりましたが、日本海特有の濃霧のせいでウラジオストック艦隊の神出鬼没の動きを探知できず、輸送船の常陸丸などが撃沈されています。
上村は帝国議会で「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧は逆さに読むと無能なり、上村は無能である」と攻撃され、国民からは「露探(ロシアのスパイ)提督」などと呼ばれ、自宅に石を投げこまれたりしました。



