恐れていた「日本人のもろさ」
山本は連合艦隊の中で唯一日露戦争に従軍した経験があり、そのような日本人のもろさを知っていましたから、こうした動揺が再び起こるのではないかと恐れていたのです。真珠湾攻撃の成功の後、青山にある山本の自宅のまわりにやってきた群集が万歳を唱えたという話を聞いて、「そのうち、そいつらが石を投げにくるよ」と言ったとも伝えられています。
さりながら、山本戦略の実行に関しては、ドーリットル空襲が追い風になりました。東京空襲に衝撃を受けたのは、山本だけではなく、軍令部や陸軍も同様だったのです。
帝都空襲の報を受けた永野修身軍令部総長は、総長室の中をぐるぐる歩き回りながら、「大変なことになった」と繰り返しつぶやいていたとか。もちろん、軍令部内でもとにかく二度と東京が空襲されることがないよう航空哨戒圏を東に拡大すべしとの声が高まりました。
また、海軍の作戦に兵力を出すことを渋っていた参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐も掌を返し、ミッドウェイ作戦やアリューシャン作戦に陸軍部隊を提供すると申し出てきます。当初は強い反対を受けていたミッドウェイ作戦も、一転して、可及的速やかに実施するようにと急き立てられるようになりました。
目的が割れたミッドウェイ作戦の迷走
しかし、軍令部や陸軍の思惑が入ってきたことで、作戦目的はさらに複雑化することになります。すでに述べたように、山本の本来の企図は、ミッドウェイ島の米軍基地を攻撃し、それを救援するために出てくる米空母を撃滅することにありました。
けれども、軍令部のように、航空哨戒圏を拡大することを重視するなら、ミッドウェイ島を占領し、航空基地として使用することが重要になります。このあたり、やはり齟齬が生じていたらしく、機動部隊参謀長の草鹿は、戦後になっても、ミッドウェイの占領が第一の目的であったと語っています(前掲『聯合艦隊』)。
狙うのは機動部隊か、それとも陸上基地なのか。この優先順位も十分に検討されないまま、ミッドウェイに向かって機動部隊は出てゆくことになります。
ドーリットル空襲は日本にもうひとつ影響を与えました。それまでは比較的正確だった大本営による戦果の発表が、これを機にでたらめなものになっていくのです。ドーリットル空襲で昭和天皇は、日本の防空の総責任者である防衛総司令官の東久邇宮稔彦王大将に被害を直接報告するよう命じます。

