妻の故郷・北海道でひっそり始めた夫婦のラーメン店
転機は、会社の体制が大きく変わり始めた頃だった。
「会社が今までとは違う方向に進んでいくのを感じていました。そこで初めて『自分でお店をやってみようかな』と思ったんです」
だが、13年間尽くした会社への思いは強かった。中枢を担う立場だったからこそ、自分の独立がどう受け止められるかも想像できた。
そこで二人が選んだ場所は東京ではなかった。北海道・札幌だった。北海道は江里香さんの故郷でもある。
「東京だと目立つし、お世話になった人たちへの申し訳なさもあったんです」
2018年。入籍と開業準備がほぼ同時進行で進んだ。そして誕生した店が「井さい」。店名は井上の「井」と、江里香さんの旧姓「西尾」から取ったものだ。
「最初は『井西』だったんです。でもいろいろ伏せたくて『井さい』にしました」
有名店で幹部を務めた人間が独立することの気まずさもあり、二人は出自を隠すように、ひっそりと店を始めた。SNSも開店から3カ月、一切やらなかった。前述の申し訳なさからだ。それでも店は少しずつ愛されるようになった。気づけば札幌を代表する煮干しラーメン店の一つになっていた。
東京進出の初日に匂いトラブル、即閉店…体が覚えている夫
そして5年後。二人のもとに二つの夢のような話が舞い込む。一つは東京進出。もう一つはアメリカ出店。
「これは乗るしかないなと思いました」
アメリカへの憧れもあった。
「海外に店があったらカッコいいじゃないですか」
二人は決断した。札幌の店をスタッフへ託し、東京へ向かう。常連客たちは盛大に送り出してくれた。「東京の人がうらやましい」「絶対成功する」――そんな言葉に背中を押された。
2歳と0歳の子供を連れての上京だった。江里香さんは振り返る。
「人生で一番明るかった時期かもしれないです」
しかし、その直後だった。地獄が始まる。
最初の舞台は東京・野方(中野区)。2023年。午前11時。開店祝いの大きな花輪が並び、華やかなお祝いムードでスタートした。順調な滑り出しだった。お客さんもたくさん来てくれ、行列もできていた。
ところが正午。
「ちょっとストップしてください」
一瞬何が起きたのかわからなかった。店にはお客さんがいっぱい。オーダーも受けて、ラーメンも作っている途中。なのに、全てがストップした。
理由は、「煮干しの匂いが強い」というビルオーナーからのクレームだった。突然営業停止を告げられた。
「お客さんに対し、ごめんなさい。帰ってくださいってことですよ」
翼さんは苦笑いした。
「地獄でしたね。本当に赤っ恥でした」
取材中、この日の話になると一瞬言葉が詰まる。翼さんは不意に胸に手を当てる。3年経った今でも身体が覚えているのだろう。
「11時に開けて12時には終わりました」



