国民に命じられた「土法炉」の建設
毛沢東がしばしば自国の工業水準の高さを誇るときには、鋼鉄の生産量という観点で語る傾向にあった。中国はイギリスの鋼鉄生産量を3年以内に追い抜く、アメリカを10年以内に追い抜く、という具合である。
こうした目標の達成に全力を挙げるようにと製鉄所が指令を受け、それだけでは十分でなかったために、国民が「土法炉」を建設するように命じられた。金属のくずを使って鋼鉄をつくるための原始的な高炉である。
金属のくずには、調理用の鍋、農具、水を入れたり運んだりするための台車やバケツなども含まれた。木やわらを燃やして燃料にするために家が解体され、森の木は完全に切り倒され(その後の十数年間に起こる洪水の原因となり)、何百人もの小作人が畑から土法炉の作業に駆り出された。
毛沢東はそれを「大躍進政策」と呼び、鉄の生産量を一気に押し上げたが、この共産党中央委員会主席も彼の多くの助言者も鉄と鋼鉄の違いを理解していなかったため、自分たちが委託した土法炉でつくられたものの大半がもろくて役に立たない鉄であること、つまり鋼鉄ではないことがわかり、愕然とした。
しかも、その役に立たない鉄にも莫大な費用がかかった。続く何年かで、中国は史上最悪の飢饉に襲われた。1958年から1962年の4年間で、数千万人の人々が飢えと疲労で亡くなった。食人に走るものさえいた。
指導者たちがとにかく固執する物質
最終的な死者数についてはいまだに議論がなされているが、控え目に見積もっても1700万人から3000万人に上る。
独裁国家であっても民主国家であっても、鋼鉄は国の指導者たちがとにかく固執しがちな物質のひとつである。あらゆる物質のなかでもっとも重要なものだからかもしれない。
ほぼすべてのものの製造過程に関与するからかもしれない。他国が製造した鉄で自国の武器をつくらなければならないという考えは、好ましくないからかもしれない。
そして、19世紀半ばのウクライナにおける鉄鋼業の始まりの物語へとたどり着く。
クリミア戦争でロシアがオスマン帝国らの連合軍に屈辱的な敗北を喫し、その10年ほど前の1844年にイングランドのチェシャー州で地下深くの岩塩抗に招かれたあの皇帝ニコライ一世が病死した直後、新皇帝アレクサンドル二世が西側諸国に追いつくという目標を掲げて野心的な改革計画を立ち上げた。
当時、ロシア帝国の一部であったウクライナのドネツ川流域は、鉱石から金属を取り出し、精製、加工する冶金の総合施設をつくるのに理想的な場所として白羽の矢が立った。
だが、その一帯のドンバス地域はあり余るほどの石炭と豊富な鉄鉱石に恵まれていたにもかかわらず、ロシアには製鉄所の建て方を正確に理解している者はいなかった。試みに何度か失敗したのち、遠くの地に助けを求めることになる。

