安土城に放火した「信雄」と光秀討伐の総大将「信孝」
一方、次男の信雄はというと、フロイスは安土城の中枢が炎上したことを報告する箇所にこう書いている。「しかしデウス(註・神)は、(中略)付近にいた信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うよう命じることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」。
織田信長の安土城は、明智光秀が殺された直後の6月14日から15日早朝にかけ、天主などの主要部が焼失してしまったが、その「犯人」が信雄だというのである。
織田政権のシンボルをみずから壊滅させてしまった兄と、山崎合戦の総大将を務め、父の仇を討った功労者である弟。もっとも、最近発見された史料にもとづき、秀吉も信孝も山崎の合戦に間に合わず、実際には池田恒興らが戦った、という説が浮上している。だが、そうはいっても、信孝の存在がゆえに光秀に圧力がかかり、織田軍の勝利につながったとはいえる。
この状況だから、自分が織田家の後継になる、と信孝が思っても不思議ではない。イエズス会の『耶蘇会年報』にも「信孝が天下の主になる」という噂があった旨が記されている。
秀吉によって謀反人に仕立てられる
だが、6月27日、織田家の今後の体制と、領地の分配を決める清須会議が開催されたところから、信孝の不満は鬱積していったと思われる。
織田家の後継は信忠の遺児の三法師と決まっていたが、幼少のため、信雄と信孝のどちらが名代となるか。信孝は光秀討伐の実績を強調し、信雄は信忠に次ぐ格を誇示。だが、議論が紛糾したため、2人を信長の名代とせず、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人の宿老が合議制で、織田家を運営することに決まった。
信孝は信忠の所領だった美濃(岐阜県南部)をあらたに支配し、信長が整備した岐阜城に入って、そこで三法師を後見することになった。ここまではまだよかったが、以後、秀吉にしてやられることになる。
秀吉が丹羽長秀や池田恒興を事実上配下に置き、信長の後継者のようにふるまい出すと、信孝は反発し、同様に反発していた柴田勝家と接近。すると秀吉は対抗して、信雄を暫定的に織田家の当主に据えた。12月には、三法師を岐阜城から放そうとしない信孝を謀反人あつかいし、三法師奪還を名目に信雄とともに挙兵。ここに詳細を記す余裕はないが、それが柴田勝家との全面対決である賤ヶ岳合戦につながっていった。

