三男までは「息子」としてあつかった信長

信長は当初、信忠だけに英才教育を施し、次男以下とのあつかいをはっきりと変えていた。実際、信雄は永禄12年(1569)、侵攻した伊勢との和睦の条件として、同地の北畠家の養嗣子になった。信孝は前年の永禄11年、やはり伊勢の神戸家へ養嗣子に出されていた。

とはいっても2人は事実上、信長の息子としてあつかわれた。信長の生前は、それぞれ北畠姓と神戸姓を名乗っていたと思われるが、信雄には伊勢(三重県中東部)の大半と伊賀(同西部)の3郡が授けられ、信孝も四国征伐が成功すれば、阿波(徳島県)をあたえることが約束されていた。

四男以下は養子に出したきりか、わずかな扶持で養っていたにすぎないので、信長は信雄と信孝については、信忠に不測のことが起きたときに後継者にする可能性も考えていたのではないだろうか。

2人とも永禄元年(1558)生まれで、信忠と信雄はともに、生母が信長の側室の生駒殿だが、信孝の母親は坂氏という呼び名しか伝わっていない。信孝のほうが先に生まれたが、母の身分が低かったので報告が遅れ、次男になるところが三男になった、とも伝わる。

いずれにせよ信雄が次男であり、母親の格も上だったようだ。しかし、周囲からの評価は信孝のほうが圧倒的に高かった。

織田信長公銅像(清洲公園)
織田信長公銅像(清洲公園)(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

能力が高く信長からもほかの武将からも信頼された

たとえば、秀吉の御伽衆の大村由己が書いた軍記物『柴田退治記』には、信孝について「智勇、人に超えたり(知恵も勇気も人並み以上にすぐれている)」と記されている。『川角太閤記』でも「御覚え御利発の有様、残る所御座なく候(周囲の評判が高くとても利発で、申し分ないご様子だ)」と称賛されている。

また、イエズス会宣教師のルイス・フロイスも、「我らの大いなる友人であり、デウスのことに好意を寄せていた」と評価し、四国総攻撃を前にしてのことを『日本史』に次のように書いている。

(註・信長は)都に向かって出発するに先立ち、三七殿と称する三男を四国の四カ国を平定するために派遣した。父は彼に一万四千ないし一万五千クルザードを黄金で与え、世継ぎである彼の兄と他の武将たちも、彼が一同から愛されており、またそうすることが父を喜ばせることを承知していたので、黄金および高価な品物を贈呈した」(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)

つまり、父の信長は信頼する信孝に多量の黄金をあたえ、信忠やほかの武将たちも、信孝が周囲から信頼され、信長の覚えもめでたいのを知っているので、黄金や贈答品を次々に贈ったというのである。