三男までは「息子」としてあつかった信長

信長は当初、信忠だけに英才教育を施し、次男以下とのあつかいをはっきりと変えていた。実際、信雄は永禄12年(1569)、侵攻した伊勢との和睦の条件として、同地の北畠家の養嗣子になった。信孝は前年の永禄11年、やはり伊勢の神戸家へ養嗣子に出されていた。

とはいっても2人は事実上、信長の息子としてあつかわれた。信長の生前は、それぞれ北畠姓と神戸姓を名乗っていたと思われるが、信雄には伊勢(三重県中東部)の大半と伊賀(同西部)の3郡が授けられ、信孝も四国征伐が成功すれば、阿波(徳島県)をあたえることが約束されていた。

四男以下は養子に出したきりか、わずかな扶持で養っていたにすぎないので、信長は信雄と信孝については、信忠に不測のことが起きたときに後継者にする可能性も考えていたのではないだろうか。