脳出血の後遺症

そうやって入籍してからの7年間は夫婦にとって最高に幸せな時期だった。

ところが、2023年の4月1日。50歳となった熊部さんの身体に異変が起こった。右半身に今までにはない痺れを感じたのだ。翌朝も痺れが残ったため、病院を受診すると、まさかの脳出血。即入院となり、NCUで絶対安静の日々が続いた。

そして12日後、退院。

当時、熊部さんは派遣社員としてコールセンターで働き始めたばかり。派遣会社の担当者は、復帰後の時短勤務などの調整を進めてくれた。

しかし熊部さんには焦りがあった。前年から息子が小学校に上がったのだが、不登校になってしまったため、妻は仕事を辞め、息子に付き添っていたのだ。

「我が家は僕の一馬力で、生活は綱渡り状態でした。当時暮らしていた部屋は立地が良い分、家賃が高め。お互い働いていたから払えましたが、今から引っ越すにもお金がかかる。『とりあえず息子の様子を見ながら、頑張ってみよう!』そんな矢先の僕の脳出血でした」

ところが現実は残酷だった。熊部さんの右手の痺れは、引くどころか日に日に明確になっていく。電話をかけてくる顧客と話しながらタイピングしたり、システムを操作するコールセンターの仕事がこなせるとは思えず、復帰の延期を決断。その後、痺れは痛みへと変わり、復職は断念せざるを得なかった。

熊部さんは妻と相談し、妻が働きに出て、熊部さんが家に残ることにした。

「夫なのに、父親なのに。何ひとつできていない」

そんな不甲斐なさに心が押しつぶされそうになっていた熊部さんを救ったのは、妻の言葉だった。

「病気なんだから、いつ誰にだって起こることだよ。大黒柱は男じゃないといけないなんて、誰が決めたの? あなたはあなたができることをして、ゆっくり療養して、それからまた始めたらいいんだよ」

そうして熊部さんは、大きな決断を下した。

生活保護の窓口で丸裸にされた

熊部さんは妻と共に、生活保護の相談に向かった。

「福祉センターへ向かったものの、“社会のお荷物”という生活保護のネガティブなイメージが重くのしかかりました。僕は麻痺がなかったため、身体障害者手帳も障害年金も難しく“制度の隙間”に落ちてしまった。そのため僕が家族を路頭に迷わせないために選べる、唯一の公的支援が生活保護でした」

福祉センターの生活課に通された熊部さんは、“丸裸”にされる思いがした。

生活保護申請書
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです

「最初は説明を聞きに言ったつもりが、気づくと申請することになっていました。財布の中の小銭、通帳やPayPayなどの電子マネーの残高、万が一のために掛けていた生命保険も『解約返戻金があるなら解約してください』と言われ、すべて手放しました」

車は原則として所有は認められないが、熊部さんは原付しか持っていなかった。妻の通勤と熊部さんの通院のために、原付の所有は認められた。

「持ち物も資産もプライバシーも、一枚ずつ剥ぎ取られていくような感覚でした。とはいえ、尋問を受けているような感じではなく、親切に対応していただきました。地域や担当の人によっては当たり外れがあるようですが、うちは熱心に話を聞いてくれて、何を言ってもご自身の裁量で上に説明ができる力量の方に当たったことは幸いでした」

妻との同棲期間中から住んでいた部屋は、家賃上限(住宅扶助)を超えていたため、引っ越しも促された。

【図表】生活保護 主な手続きの流れ
出典=厚生労働省「生活保護の基本的な実務

熊部さんの両親は高齢で低収入であることから、扶養照会は免れた。受給は4月26日に開始。およそ2週間の調査を経て、妻の収入を差し引いた11万〜13万円の生活保護の支給が決まったとき、熊部さんの胸に去来したのは「安堵」だった。

「『これで来月も家族にご飯を食べさせてあげられる』と、ほっとしました。世間のイメージやちっぽけなプライド。そんなものを守るよりも、目の前で笑っている息子と、必死に支えてくれる妻の日常を守ることの方が、よっぽど大事じゃないかと思いました。『大黒柱』という言葉に縛られ、自分を追い詰めていたのは、僕自身だったのかもしれません」