再婚した母親は毒母になった
熊部さんが小5の時、母親が再婚。相手は店の従業員で、小3の娘がいた。熊部さんは、母親と再婚相手、そしてその娘と暮らすことに。
「母は再婚相手の娘に躾をする以上に僕には厳しくしました。『姉』となった僕もまた、優等生であろうとし、率先して“いい子”であろうとしました」
最初は“規則に厳しい母親”といった感じだったが、その厳しさはだんだんエスカレートしていった。
「『女の子なんだから』と言って最初は手伝い程度でしたが、いつしか家事全般が僕たち姉妹の仕事になりました。本人に聞かずに英会話教室を契約してきて『通え』と言ったり、『どうせレギュラーになれない部活なんて無駄』と言って辞めさせられたり、進路も『それはあなたには向かない』とか『あれは潰しが効かない』と言って反対され、青春時代だからこそ楽しいことや、友人と経験するからこそ心に残る思い出には何一つ参加できませんでした」
もともと体が弱かった母親は、時々体調を崩して寝込むことがあった。そんなときは熊部さんと妹が手分けをして家事を担い、母親が腰や足が痛いと言えば、マッサージまでこなした。
「もちろん友だちと遊ぶ暇はなく、学校から帰ってくる時間も厳しく管理されていました。母が欠勤の時は、勤め先の店に、僕が電話を入れたこともあります」
ひとたび逆らえば、容赦なく暴力を振るわれた。手で叩かれるだけならまだましで、胸ぐらを掴んで引きずり回されたり、頭を踏みつけられたり、革のベルトでお尻を叩かれることもあった。
「今なら完全に虐待ですね。思えば祖父母のところに逃げ帰る事もできたでしょうが、祖父母に心配をかけたくなかったですし、それでもまだ、『かわいそうな母の味方でいなくては』と思っていました。もうこのまま、自分の性別違和も言えず、母の敷いたレールの上を生きていくのだと思っていました。洗脳のようでした」
DV母の支配下でヤングケアラーに
母親の尻に敷かれていた継父は、昼の仕事に転職していたが家計は苦しく、高校は「公立でなければ中卒だ」と言われ、猛勉強した。高校に入学すると、17歳違いの弟が生まれた。
「何かにつけて弟優先の生活になりました。卒業後は短大に進んだのですが、やれ弟の具合が悪いだの、母の体調が悪いだの言われて講義をギリギリまで休まされて、いざ自分が熱が出た時に休みたくても休めず、フラフラになって受講していたら、見かねた教授に『出席扱いにするから帰りなさい』と言われたこともあります。僕は生活に自由がないのに、母が友だちと出かけるときは、僕が弟の世話をするという、誰のためかわからない生活をしていました」
子供時代の熊部さんは、心と体の性が異なる性を持つ性同一性障害に悩みつつ、DV母の支配下でヤングケアラーとなった。
「それでも僕が壊れなかったのは、皮肉な話ですが、母から洗脳された“効果”が大きいと思います。ただ、母も常に毒母ではなく、親子で穏やかに過ごす時間もあったことはささやかな救いとなりました。それに何より、僕がDVされていた状況や、性同一性障害のことなど、何でも相談できる友人がいましたし、学校生活が楽しかった。だから、乗り越えられたんです」
そして、その後は最愛の人との結婚や性別適合手術という人生の充実期を迎える一方、生活保護の受給に至るという経済的な困窮と、命に係わる大きな健康の問題を抱えるという波乱万丈なものとなっていく。



