3歳で感じた「性別違和」

西日本で生まれ育った熊部さんは、物心ついたとき、両親はすでに離婚していた。

「母が20歳になる4日前に僕が生まれているので、18歳か、19歳かあたりで結婚していると思います。離婚は22歳頃と聞いてはいますが、父の事は1枚残っている写真でしか知りません。母からは、『お父さんは死んだのよ』と聞かされていましたが、子ども心にたぶん嘘だろうなと思っていたので、後に生きていると聞かされても驚かなかったですね」

離婚の理由は、父親の不倫だったという。離婚後、母親は熊部さんを田舎で暮らす自分の両親に預けて、自分は他県の市街地で暮らし、スナックで働き始めた。

祖父母は、家の一階で居酒屋のような食堂を営んでいた。両親が離婚したとき、熊部さんは2歳。祖父母は40代半ばだった。

「祖母は優しくも厳格な人でした。今の僕の礼儀や常識の土台を作ってくれたのは、間違いなく彼女です。祖父は僕を驚かしたり、笑わせたりするのが大好きでした。そんな祖父母に可愛がられながら、穏やかに暮らしていました」

ところが熊部さんは、すでに3歳の頃には、漠然とした違和感を覚えていた。

幼稚園に入園した熊部さんは、男女別に整列する時、吸い寄せられるように「男の子の列」に並び、先生に

「女の子はこっちよ〜」

と女の子の列に並ばされていた。

「僕はいつも、『なんであっちじゃダメなんだろう?』と不思議でなりませんでした。そんな僕の初恋は、近所のパン屋でアルバイトをしていた高校生のお姉さんです。この頃はまだ『性別違和』なんて言葉も知りません。でも、『女の子なのに女の子が好きなこと』は、なぜか『人に話してはいけない気がする』と本能で感じていました」

教室で授業を受ける小学生
写真=iStock.com/Zoey106
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「女の子」という役割

小学校に入学した熊部さんは、離れて暮らす母親から本革の赤いランドセルをプレゼントされた。当時は赤か黒かの2択しかなかった当時、「黒がいいな」と思っていた熊部さんだったが、言えなかった。

「小学校に入学することは、社会という名の大きな舞台に上がるようなものです。でも、僕に配られた台本には『女の子』という役割がしっかりと書き込まれていました。当時の僕は、その台本を読み返すたびに首を傾げていたんです。だけど伝え方が分かりませんでした。だから僕は毎日、スボンを履いて登校しました。それは、僕は僕でいられるための、ささやかな“鎧”でした」

放課後になると熊部さんは、女の子の友だちと遊んだ。しかしある日、川で男の子たちが遊んでいるのを見かけると、男の子たちと一緒に魚を追い込む遊びに夢中に。それからというもの、祖母に内緒で男の子たちと泥だらけになりながら遊ぶようになった。

しかし一方で、熊部さんは「いい子」であろうとした。

「当時の地方都市でシングルマザーが生きていくのは今よりずっと大変で、職種も絞られていました。母は店から30秒という至近距離に部屋を借り、接客の合間に寝ている小さな僕の様子を何度も見に来ていたのです。今なら児童放置・虐待と言われるかもしれませんが、託児所などもなく、それが母なりの苦肉の策だったんです」

そんな状況を不憫だと思った祖父母は、半ば強引に熊部さんを田舎へ連れ帰ったのだ。

「おかげで僕は寂しくありませんでした。だからこそ僕は、母一人遠くで働くことを『かわいそうだ』と思っていました。そのせいで僕は『母にとって、手のかからない、いい子でいよう』と無理をしていたのかもしれません」