※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
65歳になった大関和と関東大震災
大正12年(1923)9月1日の正午近く、明治以降の日本では最大規模の被害をもたらした関東大震災が発生した。このとき、“楽隠居”の大関和は非番の看護婦たちと一緒に昼食の準備をしていた。リウマチがさらに悪化して手先が強張り、包丁を握るのが辛くなっていたのだが、台所に立って“娘”たちに料理の作り方を教える。教えることは看護婦の仕事だけではない。家事や料理、言葉遣い、礼儀作法、等々。どこに出しても恥ずかしくない“娘”に育てるために、伝えねばならないことがまだいっぱいある。当分は温泉地に引き籠ることはできないと、嬉しさ半分の苦笑いで口角が上がる。
さて、食事の準備を終えて食卓に着こうとしていたその瞬間、凄まじい地鳴りがして木造の家屋が上下に激しく揺れた。食卓から落ちた食器が畳の上を転げまわり、和はたまらず尻しり餅もちをついてしまう。しかし、揺れが収まるとすぐに、「行きますよ」そう言って立ちあがった。日比谷公園の群衆雪崩事故のときに見せた勇姿が思いだされる。こういったときには肝が据わって本当に頼りになる。武家の娘という出自のせいか、それとも看護婦としての使命感によるものか。
リウマチの体でケガ人の看護に奔走
曲がっていた背が真っ直ぐ伸び、杖も持たずにスタスタ歩きだす。外から悲鳴や怒号が聞こえてくる。あれだけ凄まじく揺れたのだから、怪我人も大勢でたはずだ。救護を待っている人がいると思うと、じっとしてはいられない。足腰の痛みもすっかり忘れている。久しぶりに看護服に着替え、救護鞄を抱えて外に出る。と、そこには驚くべき光景が広がっていた。建物は倒壊し、火事が発生しているのか煙や焦げ臭い匂いが充満している。
呆然と立ちすくむ看護婦たちを叱咤し、瓦礫をどかし臨時の救護所を設置した。そこに怪我人が続々と運ばれてくる。看護婦たちにテキパキと指示を出して迅速に応急処置をおこなう。和が看護婦として見せた最後の姿だった。それは弟子の看護婦たちの目にもしっかりと焼きつけられ、伝説として語り継がれてゆくことになる。
関東大震災では火災の被害も甚大で、東京市中では22万1718棟の建物が焼失している。大関看護婦会が所有していた4軒の木造建築も、地震の揺れに耐えて倒壊は免れたのだが、その後に起きた火災によってすべて焼失した。植村正久の富士見教会も焼け落ち、矢嶋楫子が学院長をしていた女子学院の校舎は甚大な被害をうけている。