昭和7年、73歳でこの世を去る
現役を引退してからはもう長い月日が流れている。華族や資産家といったかつての優良な顧客との縁は薄れて、看護婦会の経営は厳しくなっていた。以前にも増して金に困っているようなのだが、そのことには一切触れてこない。しかし、長いつきあいの相馬愛蔵はすべてを察している。和の枕元で話しながら財布の有り金を抜き取り、そっと布団の下に押し込んで帰るのが常だった。
そして、昭和7年(1932)5月22日、和は静かに息を引き取る。享年73。
訃報は新聞やラジオでも伝えられた。全国から届けられた花輪が、大関看護婦会のある道沿いにずらり、何十メートルにも渡って延々と並ぶ様は壮観だったという。葬式の当日には付近に人垣ができるほどの弔問客であふれ、札束で風呂敷がいっぱいになるほどの香典が集まった。和を慕う人々がそれだけ多かったということだ。
約1200万円の借金を残したが…
生前の借金を数えたところ3000円に達していた。昭和初期の1円の価値は、現在の4000円に相当するという試算がある。とすれば、当時の3000円は1200万円ということになる。かなりの大金だが、香典で生前の借金がほぼ清算できたとか。「金は天下のまわりもの」。いずれは自分のところに戻ってくる……と、和が生前に言っていた通りになった。苦しむ人々を救うことに費やした人生、それが報われた結果だったともいえる。
「慈愛」は代償や感謝を期待せず、ただひたすら相手のことを思って尽くす自己犠牲の精神。だが、普通の人がその心境に到達するのは難しい。利益を欲する打算、褒められたいという承認欲求といった不純物がどこかに入り込んでしまうものだ。
なぜお嬢様気質の和は愛されたのか
和にはそれがない。苦しむ人々に寄り添い、彼らのために奔走しつづける。まわりの空気や世間の常識など眼中にない。純粋すぎるがゆえ、独善や視野狭窄に陥り色々やらかすことも多かった。しかし彼女を理解しているまわりの者たちには、その欠点すらも愛すべきチャームポイント。それが和のカリスマを形成している大きな要素のひとつだった。
そのカリスマが、正式な看護教育を身につけたトレインド・ナースを日本にも普及させるのに大いに役立った。賤業と見なされていた看護婦(看病婦)という職業のイメージを払拭し、看護婦が医療現場に欠かせぬ専門職のひとつであることを知らしめる。和の強烈な個性が世間に露出することで、その達成が早められたのは間違いない。
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。
